15マルグリッド4

3378 【白と黒】

どこまでも広がる真っ暗な空間。マルグリッドの意識はそこにあった。

体を動かそうとするが、動かすことができない。体は何処かへ行ってしまったようだ。

意識だけの存在となってこの空間に存在している。そう漠然とマルグリッドは理解した。

肉体と意識は離れ、痛みもなく、重みもなかった。あるのは意識と感情だけだった。これが『死』なのかと、マルグリッドは思った。

そして、もう二度と我が子をこの手に抱くことはできないのだという思いが心を覆った。

しかしあの子は助かったのだ。自分の役目は終わったのかもしれない。

あの子と過ごした時間は僅かではあったけれど、それでも幸せだったのかもしれない。

「もう……思い残すことは何もないのね……」

マルグリッドの思考は少しずつ、暗い空間に融け消えていく。

息子と暮らした日々を思い出し、彼の未来を思い描きながら、ゆっくりと意識を閉ざしてゆこうとする。

「まだだ。 まだ終わってはおらぬ」

声がした。男とも女ともつかない不可思議な声質が、マルグリッドを包むように響き渡る。

声の正体を突き止めようにも、マルグリッドには動かす視界が存在しない。

「なぜ!? あの子の運命は変わったはずよ!」

マルグリッドは激昂した。自分がやってきたことが無意味になる。そんなことは断じて許されなかった。

だが、声はマルグリッドの言葉に答えない。

代わりにマルグリッドの意識に、朧気ではあるが一つのビジョンが浮かんだ。

すっかり成長したであろう息子が、図書館で本を読み耽っていた。かじり付くように本を読み漁る我が子。

マルグリッドはその様子を見て安堵した。

だがそれも束の間、突然、彼は胸を押さえて呻き始めた。心疾患の発作が出たのかもしれない。

息子は積み上がった本を倒壊させながら床に倒れ込んだ。胸を押さえたまま藻掻いているが、誰一人として助けには来ない。

動きが少しずつ小さくなってゆき、最後には動かなくなった。

マルグリッドはその光景を、何もできずにただ見ているだけだった。

「そんな……あぁ……」

僅かに残った意識が悲鳴を上げる。

息子は助かってなどいなかったのか? それとも、心のどこかにあった不安と恐れが見せる幻影なのか?

マルグリッドには判断がつかなかった。

「どうして……」

融けて崩れていた意識が輪郭を取り戻すように感じられた。マルグリッドの意識は、急速に人身があった頃のように活動し始める。

「脆弱な実存の末路だ。 結果は変わっておらぬ」

無機質だが感情にまとわりつくような粘着性を持つ声は、淡々と言い募る。

「そんなの、絶対に許さない」

マルグリッドの意識はありったけの怒りを込めて、奇怪な声に言い返した。

「まだ、まだ何かできることがあるはずよ」

「かもしれぬ。 常に世界は可能性で満ちている」

「絶対に変えてみせる!」

「世界は可能性の総体。 そして、ここはその全事象とつながるリンボ――忘却界――ともいえる」

「お前は誰なの?」

「思いだけが可能性を選択することができる。物は思わぬ。 人の意識だけが選択を行うのだ」

リンボの主はマルグリッドの質問を無視した。

「世界を変えてみせよ」

リンボの主の声が響くと、マルグリッドの意識を暗闇が包んだ。

先程のような感覚とは違い、急速に意識が落ちていく。

「ここがお前の選んだ世界だ」

声と同時に、マルグリッドの意識が戻った。

マルグリッドは見知らぬ土地の空をゆっくりと漂っていた。

白と黒が混ざり合う大海原が支配する世界。大地と思しきものは、海上に点在する極彩色に輝く孤島のみだった。

灰掛かった淡い色の空。昏く光る銀河の渦と海から突き出る暗色の木々が、マルグリッドの視界を横切ってゆく。

まるで、白黒の海に浮かんでいるようだった。

「ここは……」

音はあるようで無い。意識の内で思った言葉が響く。

自分の言葉がこの世界の空気を震わせているのか、それともただ思っただけなのか。マルグリッドには判別がつかなかった。

「可能世界。 その内の一つ、原始に根差す力を知る、もう一つの世界」

声が紡ぐ言葉の意味は、マルグリッドには酷く不明瞭だった。単語の一つ一つを理解するのに時間を取られる。

ただ、これは『渦の世界』の一つではないか、ということは理解し始めていた。

「人の選択だけが因果を崩す。 力と意識は一体だ」

声は無機質に朗々と、歌うように言い放つ。

次の瞬間、マルグリッドは岸辺に立っていた。身体は無かったが、自意識としてそこにあった。

足下には黒くぬめった、人の身長の倍くらいの生物が打ち上げられていた。白と黒のさざ波に何度も打ち付けられながら、その生物は小さな呼吸をしていた。

「これは……」

マルグリッドはこの異界の生物に触れた。その黒い生物が死にかけていることがすぐに伝わった。

「生きたいの?」

マルグリッドは黒い異形の生物に聞いた。

「……イキタイ」

異形であったが、意識だけとなったマルグリッドには、その心が伝わった。

マルグリッドは異形の生物の意識に集中した。彼はこの世界の異端者だった。自分と同じようにケイオシウムの力に取り憑かれて力を弄んだ挙げ句、仲間に放逐されたのだった。そして、瀕死の状態でこの浜辺に打ち上げられたていた。

「この世界の私なのね。貴方は」

「マドノ……ムコウ…ノ…ジブン」

同じ意味の言葉を、二つの意識は共に語った。

「助けてあげられる?」

「二つが一つになれば、互いの力を得ることができるであろう。 束ねられた一つの意志は、新たな可能性を開く」

不可思議なリンボの主の声が再び響いた。

「わかったわ」

マルグリッドは即決した。不思議と迷いは無かった。どう見ても異様な姿をした不気味な生物だったが、どこかしら親近感すら抱き始めていた。

マルグリッドは再び意識を集中した。同時に、黒い生物もその複数の眼を瞑った。

白と黒のイメージがマルグリッドの心を満たした。

それは少しずつ混ざり合い、縞を作り、うねるような文様を描きながら、一つの灰色の球体となった。

そして、マルグリッドの感覚にはっきりとした身体の感覚が戻った。

しかし、それは元の身体ではなかった。黒い生物として世界を眺めているのが、はっきりと意識できた。

マルグリッドは新しい身体をもぞもぞと動かし、海へと入っていった。

異界の海は美しかった。黒い海面でうねっていた白は、海中では光を発する微生物だった。まるで美しい黒曜石の中を、輝く星屑と共に漂っているかのようだった。

どこに行けば良いのか。マルグリッドにはわかっていた。

記憶も、意志も、異形の生物と共有していた。互いが互いにとって不可分であった。

その黒く長い尾を振るい、海の中を滑るように泳いでいく。深く、より深く、目標に向かって一直線に進んでいった。

その目標を目にした事は一度も無い筈だが、はっきりと脳裏に浮かんでいた。

異形達が暮らす海底都市を支える神殿。その神殿に飾られたケイオシウムの輝きが、復讐の感情と共にマルグリッドの心を捕らえていた。

「―了―」