38イヴリン1

3372 【染み】

やさしい先生と看護師さん。

窓の外にそびえ立つ大きな木。

真っ白に洗濯されたシーツ。

日の光を浴びてふわふわになった、いいにおいのする毛布。

病院の中にあるこの清潔で小さな部屋こそが、イヴリンにとって世界の全てだった。

彼女の思い出は担当医が自分を診察しているところから始まる。

自分の傍には看護師のミシェルが常にいて、何くれと世話を焼いてくれていた。いつから入院しているのかは覚えていなかった。ごく最近入院したような気もするし、産まれた時からここにいたような気さえする。長く続く治療は同じような毎日だった。

自身が患っている病気は治療法が確立されていないため、長い長い時間とたくさんの薬が必要だと聞かされていた。だからきっと、もうずっとずっと前からここで生活しているのだろう。イヴリンはそう思うことにしている。

両親はいるが、見舞いには殆ど来てくれない。イヴリンのいつ終わるともわからない闘病生活による莫大な医療費を賄うために必死で働いていると、そう教えてもらった

イヴリンは窓辺にぼんやりと座っていた。

「あら、イヴリン。 そんなところで風に当たっていたら、また熱が出てしまうわ」

検診に訪れたミシェルに見咎められてしまう。

「あ……」

諭すようなミシェルの口調だったが、何故か怒られているような気がしたイヴリンは、俯いて出窓の小さな出っ張りからそっと降りた。

病院の外に出ることのないイヴリンにとって、この窓辺から見える大きな木が唯一の外の世界だ。あの大きな木の季節の変化を眺めながら様々な空想をするのが、イヴリンの日課となっていた。

「さ、体が冷えないうちにベッドに入りましょうね。 もうすぐコンラッド先生がお見えになるわ」

「は、い……」

空想を中断させられた不満はあったが、担当医が来るのであれば仕方がない。重い足取りでイヴリンはベッドに横たわった。

「いい子ね」

まるで幼子を扱うかのように、ミシェルは丁寧にイヴリンに毛布を掛けた。

ミシェルはずっとイヴリンを担当している看護師だ。病に伏せるイヴリンの些細な変化によく気が付いて、細やかに世話をしてくれる。ミシェルはイヴリンにとっては信頼の置ける姉のような存在であった。

「イヴリン。 調子はどうかな?」

間を置くことなく、担当医であるコンラッドがイヴリンの病室へとやって来た。コンラッドもイヴリンのことを当初から看続けている医者であった。

他の医者と比べれば若年に属する方だったが、とにかく治療に長い時間の掛かるイヴリンの病気に対し、根気よく慎重な治療に尽力している。さらに言えば、難しい年頃のイヴリンに対して、真剣な態度で接し続けていた。

「昨日は動悸が一度、目眩は無し。精神状態は良好、熱は……無いようだね」

コンラッドはカルテを読み上げながら質問と確認を繰り返す。イヴリンのカルテには病気による症状の全てが記録されている。ミシェルが付き添い、毎日細かく記載しているのだ。

この検診の度に、イヴリンは自分が囚人のようだと錯覚した。何もできない自分の世話をしてくれているミシェルでさえも、この時ばかりは自分を監視する看守のように思えた。

毎日の代わり映えのしない受け答えをぼんやりとやり過ごそうとしていると、不意に、コンラッドの後ろにある白い壁に、何か『染み』のようなものを見つけた。

その白い壁には不釣合いな染みがどうしても気になって、イヴリンはコンラッドの問い掛けに答えずに、その染みを凝視した。

壁の染みはどうやら黒い何かが潰れたようなものだと、イヴリンは一人で納得していた。

「イ………? どう…た? ……リン、イヴリン!」

コンラッドに強い調子で揺さぶられ、イヴリンはびくりと肩を竦ませた。それと同時に我に返ったのか、呆然とした視線をコンラッドへ移す。

「大丈夫かね? 今日はここまでにしようか」

未だ状況が理解できずに心ここにあらずといった風情のイヴリンを見て取り、これ以上の問診は無理と判断したのだろう。コンラッドは問診を中断して椅子から立ち上がった。

「あ、の……」

「どうしたんだ?」

「壁に、黒い染みが……」

立ち去ろうとするコンラッドを呼び止め、先程見た黒い染みのある壁を指差す。

「染み? そこの壁には染みなんてないわよ? イヴリン、どうしちゃったの?」

イヴリンの指差した壁を一瞥したミシェルとコンラッドは、突然訳のわからないことを口走ったイヴリンに対して顔を見合わせた。

今まで目眩や動悸、高熱による精神的な不安を口にしたことはあったものの、何かが見えるといったような症状は無かったからだ。

「でも、その……」

しかしイヴリンの目には、確かに黒い染みが見えているのだ。必死でそのことを訴えようとするも、うまく口が回らない。それどころか、動悸がしてきて息が上がる。

口をぱくぱくと必死で動かすイヴリンを見たコンラッドは、即座にミシェルに薬の入った点滴の準備を命じた。

素早く病室を出て行くミシェルを確認した後、コンラッドはイヴリンを落ち着かせるべく、再度椅子に腰掛けて検診を再開する。

「イヴリン、大丈夫だよ。 すぐに落ち着くからね。さあ、目を閉じて。 気持ちを楽にするんだ」

コンラッドの言うとおりにイヴリンは目を閉じる。収まらない動悸に必死で耐えながら、それでも、壁にできた黒い染みのことを考える。

あのような黒い染みは、イヴリンがこの病室で生活してきた中で初めて見たものだ。あんなに目立つものがわからない筈がない。だからきっと、ミシェルとコンラッド先生は掃除の見落としを見つけた自分をからかっているに違いない。後で自分が寝ている間に掃除をして綺麗にしてしまうだろう。

動悸によりうまく回らない頭で、イヴリンは勝手にそう結論付けた。

悪い方悪い方へと気持ちを膨らませていたイヴリンは、いつしか意識を失っていた。

「ねえ、聞いた?」

「聞いた聞いた。 山の向こうの施設がやられたって」

「あの悪霊め。 早く正体がわかればいいんだけど……」

「もしかして、次はここかしら」

「しっ、めったな事を言わないで!」

廊下に響く看護師達の声でイヴリンは目を覚ました。急患が運び込まれた時ぐらいにしか聞くことのない、看護師達の緊迫した声。

変化のない、平和そのものな病院での日常しかないイヴリンにとって、その声は異様に重く響いた。

「悪霊……」

いつか読んだ古い児童書でその名前を聞いた気がする。もっと幼い頃、ワガママばかり言う自分に対し、ミシェルから「いい子にしてないと、悪いお化けに食べられちゃうんだから」と、戯けた調子で言われたことがあったような気がする。

考えていく内に、イヴリンの中の『悪霊』は、診察の時に見たあの大きな黒い染みと重なっていった。

そういえば、あの染みはどうなったんだろう?

薬が効いているせいか、自由に動かない重い体を起こして、壁にあった黒い染みを確かめようとした。月明かりに照らされて青白く見える白い壁には、あの何かが潰れたような黒い染みはどこにも見当たらなかった。

意識を失う前の考えなど忘れ、綺麗な白い壁を凝視する。診察の時に見つけたのが嘘のように、そこには何も無かった。掃除したような様子も無いようだった。

気のせい、だったの?

イヴリンの背筋に怖気ともつかない何かが走る。イヴリンは思わず自分の肩を抱いた。今まで感じたことのない感覚に、イヴリンは恐怖した。

違う、あれはただのおとぎ話よ。現実に悪霊なんているわけないじゃない。

イヴリンはそう思い込むことで恐怖を紛らわそうとした。ベッドに潜り込んで毛布を頭まで被ると、必死に楽しいことを想像した。

明日のお天気はきっと晴れ。明日は調子がよくなっているから、コンラッド先生にほめてもらえる。そうだ、ミシェルに頼んで新しいお花を飾ってもらおう。

だが、楽しい想像の片隅に、常にあの黒い染みがちらついている。

眩しい太陽の光が差し込む窓辺のガラスに。微笑むコンラッドのすぐ後ろに。ミシェルが飾ってくれる鮮やかな花に。

気が付くと、イヴリンは足元の不確かな暗い森を走っていた。森の先は真っ暗で、いつまで走っても終わりが無いように感じられた。

後ろからは、大きくて黒い何かがずっと後を追い掛けてくる。

時に右へ、時に左へと曲がり、出口の見えない獣道を必死で走る。草むらの影に身を潜めて黒い何かが過ぎ去ってゆくのを待つ。黒い何かが過ぎ去った後、また走りだす。

過ぎ去った黒い何かは、それでもいつの間にかイヴリンの背後に現れ、再び迫ってくる。

私は一体何から逃げているんだろう。ぼんやりと霞がかかったような頭でイヴリンは考えた。

何に追われているのかはわからない。けれど、捕まってしまったらとても恐ろしいことが待っている。それだけはわかった。

「いい子にしてないと、悪いお化けに食べられちゃうんだから」

突然、ミシェルの声が聞こえた気がした。

「あの悪霊め。 早く正体がわかればいいんだけど……」

今度は看護師の声が聞こえた。

イヴリンの頭の中を、この二つの言葉がノイズのように駆け回る。

二つの言葉に集中を削がれたのか、イヴリンは大きな木の根元に躓いて、獣道を転げてしまった。

大きな黒い何かがイヴリンに迫る。

暗い森にあってなお、間近に迫ってくるその黒さは、嫌な程に際立つ。

漆黒がイヴリンの眼前に広がり、視界を奪う。暗闇に支配されたイヴリンの目には、薄い色の何かが光っていた。

「―了―」