3398 【森と戦争】
「この国にも争いがあるの?」
「ええ。西にある大きな国が、自分たちの領土を大きくするために私たちの国を襲ってくるの」
スプラートのいた世界でも別の森に暮らす戦士との争いはままあった。負傷する者も、戦いから帰ってこない者もいた。
しかし、その争いは互いの部族が妖蛆の影響から生き残るためにやっていることだということを、スプラートも幼いながらに理解していた。
だがパルモの目に宿った恐怖の色を見ると、自分の知る森の戦士達の闘争よりも、この国の争いはずっと大きくて悲惨なものなのかもしれない。
「この辺りまで悪い国の人たちがやって来て、村を襲ってるという噂もあるわ」
「そんな……どうしよう、早くアインを探さないといけないんだ……」
「いま一人で出て行くのは危険。 あなたはまだこの世界のことをよくわかっていないのだし」
「それは……そうだけど……」
アインのいる世界まで来れば何とかなると考えていたスプラートは、目の前が真っ暗になる気持ちであった。
「大丈夫。戦争はそう長く続かないって父さんたちが言ってた。 それに、私もシルフもアインを探すのを手伝うから、ね?」
そう言って笑いかけてくれるパルモに安堵した。それでも、早くアインを探さなければならないという焦燥感が消えることはなかった。
◆
時折聞こえる風の音と虫の鳴き声だけが響く夜の森は、平穏そのものだった。
スプラートは一際大きな木の枝に座り、ぼんやりと周囲を眺めていた。
暫くはお世話になるのだからと、パルモとシルフの仕事を手伝うことにした。その一方で、変わってしまった身体に慣れる訓練をする必要もあった。
今のスプラートは身体能力もさることながら、聴覚や嗅覚といった感覚器官が鋭敏に発達していて、とても疲れてしまう。その慣れない感覚器官を休ませるのにちょうど良いとして、夜の森に出掛けることを日課としていた。
「なんだろう、変なにおいがする……」
毎日のように森に出向いていたため、微かな変化にも気付くことができた。
それは、新しく生まれた動物に母親が与える乳の匂いだったり、ゆっくりと枯れていく木の枝が擦れる音だったりと様々だ。
しかしその日のスプラートの嗅覚は、不快な匂いが森に漂っていることを鋭敏に捕らえていた。
生臭さと錆が混じったような、気持ちの悪い匂い。スプラートはその不快感に妖蛆を思い起こした。
まさかこの世界にも妖蛆が? 不安だったが、匂いの正体が妖蛆かそれに似た何かであるならば、一刻も早くパルモ達に教えなければいけないと思い、匂いの元を探ることにした。
匂いを辿り、森の奥へ奥へと進んでいく。
村からかなり離れてしまったが、それに比例するように匂いは強くなっていった。
もうすぐ匂いの正体がわかる。逸る気持ちを抑えて、スプラートは慎重に歩いた。
僅かに木の枝が軋む音が聞こえた。音の聞こえた方向に視線を向けると、闇夜に紛れてはいたが、人の形をした何かが木の枝にしゃがみ込んでいるのが見えた。
「……誰?」
妖蛆でも村の人でもない、想定外の遭遇にスプラートは思わず声を出した。
ほんの少しの間を置いて人の形をした何かの腕が閃くと、スプラート目掛けて何かが投げ付けられた。
危ない、と本能で感じたスプラートはその場から咄嗟に動いた。投げ付けられた何かは、草むらに落ちてわからなくなった。
人の形をした何かの動きは素早かった。
敵はスプラートを仕留めることができなかったと知ると、右手に木の枝のような細い武器を持って襲い掛かかってきた。
同時に、その者が人であることがはっきりとわかった。
アインに会えないまま死ぬのはイヤだ!
スプラートはそう強く思った。思うと同時に自分の腕を振り、襲撃者の武器を薙ぎ払った。
「!?」
金属と金属が触れ合うような音がして、武器はその者の手を離れて地面へと転がった。
「これは……?」
スプラートの左腕は、焦茶色の毛に覆われた、鋭い鉤爪を持つ獣の腕に変化していた。
同時に全身が総毛立つような感覚があり、自然と四足歩行の構えを取った。
「グルルルル……」
驚きの言葉を発しようとしたが、喉からは、それこそ狼のような唸り声しか出ない。
襲撃者はスプラートの姿を見て、一瞬だけ動きを止めた。その隙を突いて、スプラートは踵を返して村の方向へと走りだした。
戦うことはできない。スプラートは狩りの仕方は知っていても、戦う方法は知らなかった。自分の身体が変化したことへの恐怖が、なおさら逃走を駆り立てた
襲撃者は執拗にスプラートに攻撃を加え続けてきた。対抗するにはスプラートは未熟であり、変化した身体能力で逃げ続けるほかなかった。
凄まじいスピードで投げ付けられる刃物がスプラートを掠める。毛で保護されていない右腕や身体に、いくつもの切り傷がついた。
スプラートにとって運が良かったのは、今夜は集会の日であり、村の大人達が広場に集まっていたことだった。
襲撃者は村に近付くことを恐れたのか、ふいに追い掛けることをやめた。
森から転がるように駆けて来たスプラートの姿を見た村の人々は、騒然となりながらも慌しくスプラートを保護した。
「一体、何があったというんだ」
「その姿は……」
「誰か、パルモを呼んで来てくれ!」
村の人々に慰められ手当てを受けつつ、スプラートは森の奥で怪しい敵を発見して襲われた事を話した。
続いて問題となったのは、スプラートのその姿であった。半分以上が毛に覆われ、発達した耳や牙は、村人達に狼か野犬のそれを想像させた。
◆
「隣村が襲われたそうだ」
「あの子はシルフのようだな。 まるで」
「聖獣の加護に違いない。 村の警備を固めよう」
村人はスプラートについて様々な思いを口にした。それでも、襲撃者が存在する事実をスプラートが知らせてくれたことで、村の人々との絆は強まった。
スプラートの心は落ち着かなかった。戦うことの恐怖と、自分の変化に戸惑っていた。
そしてそれ以上に、早くアインに会いたいという気持ちが高まっていった。
◆
それから暫くの間は森の中で怪しい人影を見ることもなく、平穏に時が過ぎていった。
村の人々は不審人物を警戒し、夜間の見回りを強化することとなった。それに伴い、子供達が夜の森へ出入りすることが禁止された。
スプラートは常にパルモやシルフの傍にいるようにしていたが、村の人々からの恐れと好奇が混じったような視線を避けることは難しかった。
スプラートは焦りと戸惑いの感情で自分を見失いかけていた。
◆
一週間ほど経ったある日、パルモとスプラートは森で採れた木の実を洗うために、村の中心にある井戸で水を汲んでいた。
スプラートの怪我は酷く、すぐにでも村を出て行きたかったが、完治するまでにはまだ時間が掛かりそうだった。
「今日はたくさん採れたね」
「しばらくは採りに行かなくても大丈夫かな?」
他愛のない会話を交わしていると、シルフが小さな唸り声を上げた。
「シルフ、どうしたの?」
シルフの様子がおかしいことに気が付いたパルモが手を止める。
スプラートもつられて、シルフが向いている方向を見た。視線の先には東方の民族衣装を着た男と、全身を黒い衣装で包んだ若い男が立っていた。
「あの人は!」
その姿を見たパルモの顔から血の気が引き、一気に青くなった。シルフの唸り声が大きくなる。
「パルモ、シルフもどうしたの?」
「スプラート、お父さんと村長さんを呼んできて。シルフ、スプラートについていてあげて」
『パルモの言うことに従おう。行くぞ、スプラート』
「う、うん」
パルモとシルフの強い口調に、その指示に従わなければならないと感じたスプラートは立ち上がった。
パルモ達の緊迫感に固まった身体をほぐそうと、大きく息を吸う。
井戸水の匂いや木の実の匂いに混じって、二人の男がいる方向からあの時と同じ、血と錆が混ざったような不快な匂いがしていることに気が付いた。
「シルフ……」
『行くぞ』
シルフに追い立てられるように、スプラートはパルモの家へと急いだ。
不快な匂いがずっと鼻から離れない。そのことが、いつまでもスプラートの不安を駆り立てていた。
◆
「隣村が襲われたようだな」
黒い男が村長に言った。
「そうです。ただ、この村はまだ安全です」
「聖獣の加護という訳か」
無表情に男は言った。
「かもしれません」
「帝國との線戦は膠着している。だから、こんな内地にまで工作を仕掛けてきている。 わかるか?」
「遠い国の戦いがここにまで及んでいると?」
「渦の消えた今、遠い国など存在しない」
「私共にはよくわかりません」
村長はこの表情の変わらぬ冷たい男の物言いに苦心しているようだった。
「帝國は死者を操る人外の術で我々を悩ましている」
「噂は聞き及んでいます。 恐ろしい話です」
「なら話は早い。 人以外の力が今こそ必要なのだ」
「聖獣を差し出せと?」
村長は嫌悪感を隠さなかった。
「差し出せとは言わぬ。共に戦おうという話だ」
スプラートはシルフの隣で男の話を聞いていた。そして、若い黒衣の男――アスラというらしい――の顔をずっと見つめ続けていた。
「―了―」