3372 【契機】
ヴォランドは自室の窓から見える景色を眺め、大きな溜息を吐いた。
勉強机には、ヴォランドの年齢で学ぶには少々早い数学の教科書と課題ノートが広げられている。
ヴォランドは学校へ通っていない。貴族の子女が通う学校は邸宅からは遠すぎるためだと、祖父から聞かされていた。
「坊ちゃま、終わられたのですか?」
「あ、うん。ちょうど終わったところだよ」
「返事は『はい』だと何度言えばおわかりいただけるのですか。坊ちゃまは将来この家を、いえ、延いては――」
「わかってるよ。おじい様の跡を継いで立派な貴族になって、帝國を支える人になれ。でしょう?」
老齢な専属のお世話係であるケイシーのお小言を遮る。
「そうでございます。 もしあなた様が下賤の者のような口の利き方をなさっていたら、それは――」
彼女のお定まりの小言が始まったので、ヴォランドはそれを上の空でいつものように聞き流した。
「――ですので、きちんとなさってください。天国のお父様とお母様もお嘆きになられます」
「そうだね」
ケイシーの最後の言葉にヴォランドは表情を曇らせた。
ヴォランドの両親は、ヴォランドが幼い頃に馬車の事故で亡くなったと聞いている。
この事は、ヴォランドがそれなりに分別のついた年齢となった今でも皆一様に口を閉ざしているため、詳細はヴォランド自身もわからなかった。
「さ、もうすぐ歴史の先生がお見えになる時間ですよ」
「もうそんな時間? ちょっと休みたいよ」
「そういうわけには参りません。今日は新しい先生にお会いするのですからね」
「ロミ先生はどうしたの?」
「先日、怪我をされて、当分お休みなさるそうです」
「ロミ先生、大丈夫なの?」
「坊ちゃまがお気を配る必要はございません」
「そう……」
ケイシーはにべもなく言い切った。
彼女は優秀なお世話係りであるのだが、ヴォランドに事故や事件、災害といった負の情報を聞かせることを極端に嫌っていた。
◆
「新しい歴史の先生はどうだったかね?」
夜、祖父と夕食を共にしながら最近あった出来事を話す。
ごく希にではあったが、多忙を極める祖父と会話できる唯一の場だった。
「うん、楽しい授業だったよ」
新しい歴史の先生はバートンと名乗る、若い男性だった。
バートンの授業は教科書を額面どおりに読むだけのものとは毛色が違い、ヴォランドの知的好奇心を大いに刺激した。
「そうか。若輩の男と聞いてどうかと思っていたのだが」
「全然大丈夫だよ。それでね――」
とりとめのない話を黙って聞いてくれる祖父は、ヴォランドの唯一の肉親だ。
普段の祖父は表情が硬く、多くの人にとっては近寄り難い印象を与える人物だ。特にヴォランドの両親である息子夫婦を亡くしてからは、より厳しい性格になっていた。
しかし、孫の前だけでは鷹揚な様子を見せていた。
◆
ある夜、ヴォランドが自室で冒険小説を読んでいると、扉をノックする音が聞こえた。
扉を開けると、目の前には白と黒の毛皮に包まれた、大きな熊のようなものが入ってきた。それは通常の物よりもはるかに大きく、大人の男ほどのサイズがあった。
目を丸くして熊を見ていると、それを運ぶ使用人が続いて入ってきた。
「これは?」
「ご主人様から、毎日良い子にしているあなた様へのプレゼントでございます」
祖父からのプレゼントだった。
「すごい!」
「まだ驚くのは早いですよ」
使用人は熊の背中にあるスイッチを押す。
「さあ、オウラン。お前のご主人だよ。お辞儀をしなさい」
すると、熊は鈍重ではあるが動き出した。ヴォランドに向かってショーでも始めるかのように大仰なお辞儀をする。
「大昔の自動人形を直したものだそうです。簡単なことなら言う事を聞くそうですよ」
「おじい様にありがとうって伝えてね! 必ず!」
◆
屋敷に勤める者達には祖父から与えられた仕事があり、常に忙しそうであることをヴォランドは理解していた。
そんなヴォランドにとって、オウランは何も気兼ねすることなく付き合ってもらえる、良き遊び相手となった。
◆
「オウラン! 行くよ!」
屋敷の庭で歳相応に動き回るヴォランドに、オウランはゆっくりとした動きでついていく。
「もー、遅いよ!」
ヴォランドが囃し立てるが、オウランは言葉を発したりすることはない。
ただヴォランドの言葉に反応して動くだけだった。
「お前も喋れればいいのにね。そうしたらもっと楽しいのに」
屋敷の外に出ることが殆どないせいで同年代の友人がいないヴォランドは、口を尖らせる。
「オウラン、僕を肩車してよ!」
気を取り直したヴォランドはオウランに頼む。オウランはゆっくりとヴォランドを持ち上げると、大きな肩にヴォランドを座らせた。
「そのまま庭を一周して」
高い視線で見る庭の景色は新鮮だった。オウランよりも高い視点で見ることで、遠くまでよく見渡せた。
庭師によってよく手入れされた庭は、緑で溢れていた。
「あれ? オウラン、止まって」
屋敷の門から、使用人に導かれて歩くバートンの姿が見えた。
「オウラン、下ろして。もう勉強の時間みたい」
地面に下ろしてもらうと、ヴォランドはバートンを迎えに駆けてゆく。その後をオウランがゆっくりと付いて歩く。
「バートン先生、こんにちは」
ヴォランドが挨拶をするも、バートンはヴォランドをじっと見下ろすだけである。
「バートン先生?」
暫く黙っていたバートンに、ヴォランドはもう一度話し掛けた。
「おっと……こんにちは、ヴォランド君。 ちゃんと課題は終わっていますか?」
「はい!」
「元気な返事です。今日もよろしくお願いします」
◆
オウランと共に部屋入ると、バートンはオウランが部屋にいることに難色を示した。ヴォランドの命令で動くオウランが勉強の妨げになると思ったらしい。
「オウランは僕の友達です。絶対に勉強の邪魔はしませんから!」
「そうかい? じゃあ勉強中はオウランに話しかけたらダメですよ」
ヴォランドは授業に集中した。オウランが見守ってくれていると思えば尚更だった。
「この時に起きた革命は、人々に色々なものをもたらしました」
「でもその代わりに、帝都から離れた都市では国の恩恵が届きづらくなったんですよね。それを良くするために、おじい様のような方々が頑張っていらっしゃいます」
「そう。よく予習しているね」
「僕もいつかそうなりたいから」
ヴォランドははっきりと口にする。
「……それでは遅い。だから我々のような者が粛清せねばならない」
「先生?」
「恨むなら君の出自を恨みなさい。ヴォランド君」
バートンは決意を込めた目でヴォランドを見つめていた。その手には拳銃が握られている。
「た、助けて!」
はっとなったヴォランドは、逃げようと立ち上がって大声を出した。
「ぎゃあああああ!」
銃声と同時に、バートンの悲鳴が響き渡った。
ヴォランドの傍に座り込んでいたオウランが、ごろりと転がってバートンにのし掛かり、全体重でバートンを押し潰していた。
「オウラン!?」
「あぁ、腹がへった」
「オウラン、君は……」
「なんだい?」
とぼけた様子のオウランと、突然豹変したバートンに呆然としていると、ケイシーや警備員達が必死の形相でヴォランドの部屋へ入ってきた。
「坊ちゃま! ご無事ですか!!」
銃声を聞きつけたのか、ケイシーの顔は真っ青だった。
「僕は大丈夫。でもバートン先生が……」
「なんてこと!」
オウランはいつの間にかバートンの上から下りており、喋ることはなかった。
警備員に取り押さえられたバートンは、拘束されるとどこかへ連れて行かれた。
◆
その日の夜、ヴォランドはオウラン共々、警備員や使用人に囲まれて、屋敷から離れた郊外の別宅へと連れて行かれた。
あまりにも突然に訪れた物々しさに、ヴォランドはオウランにしがみついていることしかできなかった。
「―了―」