3274 【別れの日】
教会の音楽室に賛美歌を練習する声が響きます。私も聖歌隊の一人として練習に参加していました。
一週間後に行われる教会主宰の祭事で歌う、賛美歌の練習の最中です。
暫く歌い続けていましたが、一瞬だけ違和感が脳裏を襲い、声が裏返ってしまいました。
シスターの伴奏が止まり、周囲の視線が一斉に私に集まります。
恥ずかしくて、顔がとても熱くなりました。
「どうしたんだい、シャーロット」
歌唱を指導するカレンベルク先生も、不思議そうに私を見ておられます。
「あ……ごめんなさい」
「みんな、一度休憩にしよう」
立ち並んでいた聖歌隊の人達は、音楽室にある椅子や机で思い思いに休憩に入っていきます。
その様子を見ながらぼんやりと立ち尽くしていると、先生が私のところへいらっしゃいました。
「ごめんなさい……」
「大丈夫だよ。 たまにあることさ」
先生は私の頭を優しく撫でると、安心させるように微笑みながら仰いました。
私は心が温かくなるのを感じながら頷きます。
「カレンベルク先生! ちょっと良いですか?」
「なんだい? いま行くよ」
聖歌隊の一人に呼ばれて、先生は行ってしまわれました。私はその後ろ姿をぼんやりと見ているだけでした。
先生の姿を眺めているだけで、私は幸せだったのです。
「相変わらずカレンベルク先生はシャーロットに甘いこと」
「レミ……ごめんなさい」
聖歌隊の一人であり、同じ部屋で寝起きを共にするレミが、呆れたような顔で私を見ていました。
「気にしてないって。それよりアンタ、顔真っ赤よ」
「え、あ……やだ……」
「前々から怪しいとは思ってたけど。まぁ、先生は優しいしかっこいいもんね」
「そんなことは……」
からかうような笑い顔のレミに言われて、私はまた顔を熱くしながら首を振りました。
本当はその通りなのに。でも、それを友達に向かって面と言うことは、どうしてもできませんでした。
◆
聖歌隊の練習が終わった後、私は教会の談話室に向かいました。
「先生、いま大丈夫ですか?」
談話室にいらっしゃった先生の姿を確認すると、私は談話室へ入りました。
夕方のこの時間は、司祭様や僧侶の方々は全員食堂へと出ていて、他には誰もいません。
「ああ、大丈夫だ。何かあったのかい?」
「あ、はい……あの……」
深呼吸して、先生を真っ直ぐに見つめます。
先生は優しい笑顔を浮かべて、私のことを見ておられます。
「先生、私は……」
意を決したその瞬間のことでした。食堂から司祭様が戻ってこられたのです。
「ああ、カレンベルク。ここにいたか」
「司祭様、どうかされましたか?」
「シャーロット、すまないが席を外しておくれ」
司祭様は私を見るとそう仰いました。司祭様の言葉には深刻なものがあり、私は逆らうことができずに談話室を出ていきました。
◆
それから、私は何度か先生が一人になるときを見計らって声を掛けました。
「先生、この間の……」
「シャーロット! ごめん、ちょっと手が離せないんだ。 すぐ終わるから!」
「あ……」
「終わった頃にまたおいで」
「ごめんなさい……」
ですが、何かに邪魔をされるように、先生に声を掛けることはできても、そこから先に進むことはできませんでした。
◆
聖歌隊の練習が終わりを迎える頃、窓の外には雪がちらつき始めていました。
「あ、雪だ。雪が降ってくると祭事もいよいよって感じだよね」
「……そうだね」
屈託なく笑いかけるレミに、私は無理に笑って答えました。
もう私には時間がないのです。
◆
次の日も、雪は止む事なくゆっくりと降り続けていました。
先生はこの日、誰にも知られることなく、ひっそりといなくなってしまわれたのです。何があったのかはわかりません。
でも、私はそのことを知っていました。
◆
その日、私は旅装を身に纏う先生を教会の出入り口で見つけ、後を追いました。
先生を追っていくと、もう使われていない古びた大聖堂に辿り着きました。ホールから先生のバイオリンの音が聞こえてきます。
いつも先生が弾いているバイオリンとは違う音色に、私は不思議に思いながらもそっとステンドグラス越しに中を覗きました。
ステンドグラス越しに見る先生の顔はどこか憂いを帯びていらっしゃいましたが、とても綺麗に写っていました。
先生が弾いておられた曲は、いつもの讃美歌や聖歌のような荘厳なものではありませんでした。
それは、とある著名な作曲家が、結婚式に際して己の伴侶となる女性のために作った『愛の歌』でした。
それを先生は切なく、一心不乱に弾き続けていらっしゃいました。何度も何度も繰り返される『愛の歌』は、一つの区切りを向かえるごとに、より熱情を増していったのです。
◆
先生のバイオリンから発せられる音には、不思議な力があるようでした。
バイオリンの音から、先生の想いが垣間見えたような気がしました。憎しみ、悲しみ、後悔。そして、狂おしいまでに高まった恋慕。
そこで私は気付いてしまったのです。先生の奏でる音色は、私ではない他の誰かに向けられたものだと。
先生の想いが私に向けられたものであるならば、この音は私に届く筈なのです。
私は地面に蹲ってしまいました。それ以上、先生を見続けることはできませんでした。
私の目からは止め処なく涙が流れ続けました。
わかっていたのです、先生にとって私はただの生徒であるのだと。私を愛してくれることなどないのだと。
◆
先生は、私が涙を流している間にどこかへと立ち去っていかれました。
私はまたしても失敗したのです。愛を得られないとわかっていながら、もしかしたらと、僅かな可能性に賭けていたのに。
「先生……」
人気のなくなった大聖堂へ入ると、私は先生が立っていたところに立ち、周りを見回しました。
手入れのされていない大聖堂は、滅びの気配に曝されながらも荘厳さを失うことなく、そこにあり続けていたのです。
私は大きく息を吸うと、一つの旋律を口ずさみます。
先生が「シャーロットにだけ教えてあげよう」と、伝授してくれた特別な詩篇。
古典音楽の法則によって作曲されたそれは、古の神への賛美を表した歌です。
白い息と共に先生への想いを込めて歌い続けていると、私の心は宙に浮いたような感覚がし始めました。
先生の笑った姿や優しい顔を思い浮かべながら、次こそは想いを伝えようと、私は歌い続けました。
◆
気が付くと、私は教会で聖歌隊の練習を見学しているところでした。
聖歌隊の練習が休憩に入ると、カレンベルク先生がゆっくりとした足取りでこちらにやってこられました。
「シャーロット、大丈夫かい?」
「あ……」
「無理して声を出さなくても良いからね」
先生に頭を撫でられていると、ゆっくりとその日のことが頭の中に流れてきます。
今度の私は風邪で喉を痛めてしまっていて、練習を見学しているのでした。
「辛かったら横になるんだよ」
先生の優しい言葉に、私は戻ってきたことを確信しました。
期限は一週間。聖なる催しの前日、先生がいなくなってしまうその日まで。
私は潤む目を必死に堪えながら、練習に戻られる先生のことをじっと見つめていました。
「―了―」