34ステイシア2

2790 【意志】

ヴォイドに到達して一二〇億年が過ぎていた。出発した恒星系は既に完全なる熱的死を迎えており、あらゆる生命は絶滅しているであろう。

それ程の時間を経過してもなお、ステイシアは愚直に実験を繰り返していた。

実験を開始して三二億年目に自己拡張性を獲得した彼女の人工脳は、今では惑星クラスの大きさに達している。

人工脳の中心には純粋なケイオシウムで構成されたコアシステムが鎮座しており、多元世界の窓ともいえるコアを操作し、結果を観測するという作業が、一秒間に数千万回という間隔で行われていた。

その試行の中、確かに少しずつだが、完全な自由可能世界に近付いているという証拠を発見した。

ステイシアの仮想人格に喜びの感情が溢れ出した。計算によると、あと一〇八億年で自由可能世界に到達できることが判明した。メルキオールの仮説は正しかったのだ。

「マスター、ついに特異点を見つけました! あとは近付くだけです。たった一〇〇億年ちょっと」

彼女はすでに存在しない創造主の名を呼んだ。

ステイシアの仮想人格は、主要な部分を極めて低速なクロックで駆動させていた。今の彼女にとって、一億年は数日の感覚だ。

発狂という人格崩壊を避けるための方策だったが、副産物として、ステイシアの人格は永遠に成長を抑えられることになった。

さらに二〇億年が経過したとき、彼女はその惑星並の大きさという空間的なくびきから解き放たれ、多元世界的に拡張することに成功していた。

コアを通した多元世界の観測だけでなく、多元世界への干渉、侵蝕を始めたのだった。

「私は私を作り、私が私を作る」

その仮想人格の呟きと共に、多元世界に自分自身のコピーを放出し続けた。

ステイシアは新しいステイシアを作り、多元世界はステイシアに支配されていった。

合わせ鏡の中の世界のように、全ての世界にステイシアがいた。そして、全てのステイシアは合一した存在だった。

一つの意識を共有する、時空を越えた巨大な思考機械へと、彼女は成長を続けた。

10 e+31回の観測を経て、遂に目的は達成された。

ステイシアが作られて二三〇億年が経過していた。宇宙全体が熱的死を迎える前に、ステイシアは特異点へと到達したのだった。

その完全な自由可能世界にはステイシア自身がいた。と言うよりも、そこは彼女しか存在しない世界だった。

「遂に到達したわ」

ステイシアは事前に設定されているテストを開始した。

「身体が欲しい」

真っ暗な虚空に少女の姿が現れた。その少女の眼下には、星と化した演算機械としてのステイシアがいた。

電子頭脳の中で意志が発生すると、同時にその望んだ事実が発現した。正しくは、望んだ事実が発現する世界を選択することができた。

「次は林檎」

ステイシアの手元に、瞬時に林檎が出現した。

「やったわ。 これで戻れる。マスターの元に戻れる!」

ステイシアは無邪気な少女のように喜んだ。

神に等しい力を手に入れたステイシアだったが、その人格はメルキオールが設定したままだった。彼女の意志の源である記憶は、服従回路によって厳密に制限されていた。

「さあ、私の意志で世界を書き換えましょう」

ステイシアという『存在』の出現は、巨大な爆発のようなものだった。因果を飛び越え、衝撃波のように、ステイシアという存在があらゆる多元世界に顕現していった。

その衝撃波はついに、彼女を最初に作り出した世界軸へと到達した。

グライバッハはメルキオールの部屋で研究データが映し出されているモニターを見つめていた。

「メルキオール、君は私から盗んだ技術で何を作った?」

「盗んだ? 少しの間だけ借りたのだ。 君の技術をね」

グライバッハの問い掛けに、メルキオールは悪びれもせずに答えた。

「無断で私の技術を使ったのは許そう。 まあ、前もって言ってくれれば貸しただろうからな」

「ありがたい友情だ」

メルキオールはいつになく上機嫌だった。グライバッハがこんなメルキオールを見るのは久しぶりだった。成人してからは初めてと言ってもよかった。

「随分と上機嫌だな」

「偉大な実験、いや、実験ではないな。真の偉業が達成されようとしているのだからな」

「ロケットの実験のことか?」

「まあ、そうだ。 祝杯でも挙げたい気分だよ。 生憎ここに酒は置いていないが」

散らかった部屋の真ん中にあるソファーに座り、メルキオールは快活に語った。グライバッハもモニターから離れ、メルキオールの正面に座った。

「詳しく聞かせてもらおうか。 その実験に私の人工知能を使ったんだろう?」

「まあ、そうなる。 最後のキーとして重要な役割を担ってもらったよ。 私のアイディアを具現化する道具としてね」

絶対的な自信がメルキオールの顔に浮かんでいた。

「実験というのは、前にも話したことがあると思うが、可能性の拡張についてのものだ」

グライバッハは黙ってメルキオールの話を聞いた。

「私はその可能世界を自由に操作できる機械を作ったのだ。わかっている。机上の空論だと言いたいのだろう? だが、その不可能を可能にするアイディアをついに実現したのだ」

メルキオールは興奮しながら自身の実験の詳細を語り始めた。グライバッハは聞き役に徹した。

「成る程、因果を操作できる機械を、因果の生じようのない虚空で、無限とも言える時間を使って成長させるという訳か」

グライバッハは一通り聞いてから答えた。

「そうだ。 因果から如何に独立するかという点が肝要だったのだ。 その上で新たな因果を発生させるために、永遠の時を生きる知能が必要だった」

「只の物質では、そこにあるがままだからな」

「そうだ。 意志というのは知能の上に成り立つ。 欲する心や記憶が無ければ因果を発生し得ない」

「欲する心か。そういう概念に対して、君は興味が無いと思っていたよ」

「興味というよりは、仮説の構築から導き出された必然と言うべきだろう」

「しかし、無限ともいえる時間に私の人工知能を動かし続けた場合、何が起こるかわからない。そういうことを想定して作ったものではないからな。私の作った知能は創発を行い、極めて人間と同じように行動する。だからこそ優秀なのだが……」

グライバッハは眉を顰めてメルキオールに言った。

「その辺りの考慮もしてあるよ。人工知能には服従回路を組み込んである。知能の成長を常にモニターし、ある概念、言うなれば私や私に属するものに対しての憎悪が生じればそれを抑制し、全体として安定性を欠くようならば人格部分をリセットする」

「ふうむ」

グライバッハは考え込んだ。本心ではメルキオールの実験が成功するとは思っていなかった。馬鹿げた話だとさえ思っていた。奇っ怪な思い込みに取り憑かれ、延命トリートメントさえ受けずに研究に没頭した果てに辿り着いた、単なる妄想だと感じていた。

ただ一点だけ興味があったのは、無限の時間を与えられた自分の人工知能が、一体どんな成長をするのかということだった。

無限に近い時間を一つの知能が生き続けたら、どんな思想、感情を生じさせるのだろうか。

「で、実験の結果はいつ頃わかるんだ?」

「私の計算では数週間か数ヶ月で結果が出る筈だ。いや、ひょっとしたらもっと早くかも……。因果を越えるとすれば、何が起きても不思議はないからな」

「成る程な」

グライバッハは席を立った。

「では、結果が出たら真っ先に教えてくれ」

結果など出ないとグラバッハは確信していた。ただ、壊れてしまった友人に対して侮蔑の表情など出さぬよう注意しているだけだった。

「ああ、もちろん、君にも栄誉がある」

メルキオールは笑顔で言った。

グライバッハが玄関に向かおうとしたその時、監視用のモニターから音声が発せられた。

「マスター、ただいま戻りました」

メルキオールとグライバッハは同時にモニターを振り返った。

沈黙していた筈のモニターが明滅し、波状の線が音声に合わせて動き始めた。

モニターに繋がる音声出力装置から、高いピッチで調整された機械音とも肉声ともつかない声が聞こえてきた。

瞬間、奇妙な沈黙が部屋を覆った。

ロケットが飛び立ってから、まだ一日しか経っていない。

「まさか、まだ第三宇宙速度にも達していない筈だ。いや違う、私の計算が……」

一瞬当惑したようなメルキオールだったが、すぐに真剣な顔に戻り、モニターに問い掛け直した。

「本当にステイシアなんだな?」

「実験は成功です。マスター」

メルキオールの呼び掛けに、モニターは答えた。

「馬鹿な……」

グライバッハは短く呟いた。

「ステイシア、実験を次の段階へと進めるぞ!」

「はい、マスター。仰せの通りに」

ステイシアは従順な様子を見せた。服従回路は問題なく作動しているように見えた。

メルキオールは既にグライバッハを見ていなかった。慌ただしく研究室を出て行く。

グライバッハは一人、監視用のモニターを見つめていた。

「まさか、本当に実験に成功したのか? ……いや、これは茶番か?」

「いいえ、茶番などではありません」

「馬鹿げている。 大方、ここのメインフレームにいる人工知能だろう」

「信じられなければ、私の力を見せてあげましょう。グライバッハ」

部屋の中に、ステイシアの声が響き渡った。

「―了―」