38イヴリン2

3372 【薬】

「いやああああああああ!!」

イヴリンは甲高い叫び声を上げながら飛び起きた。

荒く息をついて周囲を見回す。そこはどこかの獣道ではなく、いま自分が生活している病室のベッドの上であった。

日の光が差し込んでいる。夜は明けていた。

「イヴリン!」

「どうしたの!?」

叫び声に血相を変えて、コンラッドとミシェルが入ってきた。

「ミシェル、検温の用意を頼む」

「はい!」

「イヴリン、大丈夫だからね。何があったのか話してごらん」

呼吸を落ち着けると、イヴリンはたどたどしい言葉で夢の内容を話す。

「森を……走ってて。そうしたら、黒くて大きな何かが私を追いかけてきたの」

コンラッドは黙ってイヴリンの言うことに頷く。

「私は転んで、そうしたら、黒い何かが私に覆いかぶさってきて……、そこで目が覚めたの」

全部話し終えた時、ミシェルが検温器を持ってきた。

手早く検温器を差し込まれ、熱を測られる。

「先生、発熱しています」

「熱の影響もありそうだな。少し薬を増やした方がいいだろう」

「わかりました」

コンラッドはメモに何かを書き込んでミシェルに手渡した。それを見たミシェルは再び病室を出て行く。

「イヴリン、食欲はあるかい?」

「少し、だけ……」

「それは良かった。朝食を食べたら必ず薬を飲むんだ。いいね」

「はい……」

コンラッドはそれだけを言うと病室を出て行った。コンラッドの背に、あの黒い染みが見えたような気がした。

背後で小さな爆発があった。熱風がイヴリンの髪や皮膚に当たる。

「神罰は下った……」

そう呟くと、爆破した場所を後にした。

走っていくと、薄汚いスラム街へと出た。

そこには黒っぽい衣装を着た、自分と同年齢くらいの少年少女達が待機していた。

「全員揃ったな。戻るぞ」

同じような服装の大人に指示され、それに従って全員が一定の方向に駆けていく。

「しまった。見つかった!」

前方を走っていた大人の声がした。

武装した大人達がイヴリン達を捕まえにやって来たのがわかった。

「逃げろ!」

蜘蛛の子を散らすように細い通路を別々に逃げていく。イヴリンも方向を変えて走り出す。

どの辺りまで走ったのか。イヴリンはスラム街から離れた場所にいた。開けているわけではないが、よく整備された公園のようだった。

武装した大人が追い掛けてこないことを確認して地べたに座り込むと、そのまま身体を休ませるために目を閉じた。

「大丈夫?」

いつまでそうしていただろうか。イヴリンは突然誰かに声を掛けられた。

しまった。そう思うと、イヴリンは咄嗟にその場から離れようとした。

目の前に自分より少し年下のように見える少年がいた。

イヴリンは警戒した。こんな真夜中に少年が出歩いているなんて、ひどく不自然である。

「顔色、悪いよ。ボクの家に来るかい? ちゃんとした場所で休んだ方がいい」

そう言って少年は手を差し出す。

「触らないで!」

イヴリンは反射的にその手を払い除けると、すぐに立ち上がって駆け出した。

「待って!」

少年の声が背後から聞こえたが、構ってなどいられる筈もなかった。

飛び込むようにして森へ入ると、そのまま獣道を走り抜けた。

帰り道はわかっていた。森を抜け、人気のない林道に出ると、整備された道を走る。

林道の先に古ぼけた白い建物があった。

そこでイヴリンは目を覚ました。

雨音が聞こえる。窓から見える空には厚い雲が立ち込めており、灰色のみが広がっていた。

「また、同じ……夢?」

新しい薬を飲むようになってから、イヴリンは同じような光景、同じような展開の夢に悩まされるようになっていた。

上がる火の手、爆音、そして優しい少年。場面は違うが、それだけはいつも同じだった。

薬を飲まずに隠したこともあったが、それをミシェルに見咎められてひどく怒られてしまい、それからは薬を飲む際に看護師の監視が入るようになった。

夢のことはコンラッドにもミシェルにも打ち明けなかった。言えば薬が増えるだけだと思った。

イヴリンは横になったままで、悪い想像を繰り返していた。

「もういや……」

イヴリンは毛布を被った。この悪夢を見始めた頃から、あの黒い染みがよく現れるようになった。

悪夢から抜け出せなくなったらどうしよう。薬のせいで起き上がることができなくなったらどうしよう。お父さんとお母さんに会えなくなったらどうしよう。黒い染みに全部飲み込まれたらどうしよう――。

悪いことばかりを考え続けていたが、いつの間にかイヴリンは意識を失っていた。

周囲から火の手が上がり、悲鳴があちこちから聞こえる。

「やめて! 連れて行かないで!」

男の身体に縋りつく女性が、枯れた声で懸命に叫んでいた。

「安心しろ。この子は我々が貰い受ける」

小さな幼児を抱いた男がせせら笑う。

「だめ! イヴリン! イヴリン!」

「そうか。イヴリン、お前はこれから神の使徒となる」

女性はイヴリンの名前を必死で叫んでいる。イヴリンはその光景を、男の後ろからぼんやりと眺めていた。

「神を冒涜する者に死を」

男が棒のようなものを振り上げた。女性は耳に残らんばかりの絶叫を上げ、頭から血を噴出して倒れ込んだ。

それでもなお、女性の手は男の抱える幼児に向けて伸ばされていた。

「神意に従わぬから、こうなるのだ」

男が振り向いた。その顔は、主治医であるコンラッドにそっくりであった。

「イヴリン、イヴリン! しっかりして!」

誰かに揺さぶられて、イヴリンは目を覚ました。

「み、しぇる……?」

心配そうに自分の顔を覗き込んでいるミシェルと目があった。

「あぁ良かった。凄くうなされていたから心配で……」

「酷い、夢をみたの……」

「よければ話してもらえるかしら」

夢の内容を打ち明けると、ミシェルの顔から表情が消えた。

「ミシェル?」

「あ、ご、ごめんなさい。夢だもの、そういうこともあるわ」

「そう、だよね……」

「そうそう。コンラッド先生はとても素晴らしい先生よ。絶対にイヴリンの病気を治してくれる」

「うん」

「さ、まだ朝まで時間があるわ。もう少し寝てて」

ミシェルはイヴリンに暖かい毛布を掛けると、病室を出て行った。

一人になったイヴリンは天井を見た。薄暗い室内に、あの黒い染みが広がっていた。

「楽しい? 私が苦しむ姿を見るのは」

染みは二つの光る目を持っていた。染みはイヴリンの呟きに答えることなく、その目を光らせているだけだった。

「―了―」