40カレンベルク2

3257 【超越する者】

父を何とか説得して、ようやく倒れたビアギッテを医務室に運ばせることができた。

音楽堂に残ったカレンベルクは、なおも嬉しそうな表情の父に怒りの目を向ける。

「どういうことか説明してください。ビアギッテが苦しんでいるのに、何がそんなに嬉しいのですか!?」

「そう憤るな。順番に説明しよう」

父はそう言うと、大仰な手振りで語り始めた。

――薄暮の時代、人間の進化の停滞を嘆いた偉大な人物がいたこと。

――その人物は、人類を新たなステージへと昇華させるために行動を起こしたこと。

――その結果が、超越した力を得た者達だということ。

――このルピナス・スクールは、超越した力を持った者を生み出すために作られた施設であるということ。

――そして、カレンベルクはその力を最大限に発揮することができる、新しい超人の第一号だということ。

「僕が、人間じゃない……」

俄には信じがたい話ではあったが、現にビアギッテはバイオリンの音色一つで傷つき、倒れた。それこそが、カレンベルクに与えられた力の証明となっていた。

「否、超人だ。カレンベルク、お前には人を超越した新たな人類として、皆を導く役目があるのだ」

「お父様はビアギッテや他人を傷つける力が人々を導くと、本気でお考えなのですか?」

悲痛な声で父に尋ねる。

「力こそが善き世界を作るために必要なものなのだ。我々には障害が多い。それを叩き潰す圧倒的な力が必要なのだ」

「僕にはわかりません」

「すぐに理解しろとは言わん。今日は疲れたろう、もう休め」

父はそれだけ言うと、黒服を連れて音楽堂を去った。

残されたカレンベルクはしばし呆然とした後、重たい足取りで音楽堂を立ち去った。

翌日、カレンベルクはビアギッテのいる病院を訪れた。スクールに併設されており、手術設備などが一通り整った病院である。

スクールが山岳地帯にあるために、ローゼンブルグの病院への搬送時間が懸念されたために作られたとカレンベルクは聞いていた。

ビアギッテの意識ははっきりとしていたが、まだ青い顔をしてベッドに横たわっていた。

「ビアギッテ、すまない」

「謝ることはないですわ……」

「どこか痛いとか、苦しいとかはないかい?」

「大丈夫です」

「よかった……」

カレンベルクは何度も病院に通い、ビアギッテを見舞った。

日々元気を取り戻していくビアギッテを見て、カレンベルクは安堵した。

カレンベルクは自分が手に入れたという力について考え始めていた。音楽堂で一人、カレンベルクはザジを手に演奏を試みる。

「……だめだ」

だが、ビアギッテを苦しめた場面がありありと思い出されてしまい、どうしても弾く事ができずにいた。音楽堂の椅子に座り、カレンベルクは気を落ち着かせることにした。

父の言葉がカレンベルクの心に重く圧し掛かっていた。超越する者とは何なのか、自分はいつ人間でなくなってしまったのか。

あれ以来、父とは会話をしていなかった。

自分にどういった力があって、何ができるのか。ザジと銘打たれた新たなバイオリンを手に考え続けていた。

「カレンベルク様?」

不意に音楽堂の扉が開いて、ビアギッテがゆっくりとした足取りで入ってきた。

私服姿のところを見ると、退院してきたばかりと見える。

「ビアギッテ!? 身体はもういいのかい?」

「はい、お医者様からもう大丈夫だろうと」

「そうか……」

「どうかしましたか?」

「……部屋に戻ってくれないか。それに、もう僕とは会わないほうがいいだろう」

ビアギッテが倒れてから言うか言わまいか、ずっと悩んでいたことを口にした。

今までずっと最愛の人として想ってきた相手にそれを告げるのは、カレンベルク自身も辛かった。

だが彼女を傷つけるよりはいい。自分にそう言い聞かせて、決別をすることを決めていた。

「なぜ? まさか、あの時のことを気にしていらっしゃるの?」

「ああ。僕がバイオリンを弾いて、また君があんなことになったら……」

「あの時は素晴らしい音色にちょっと圧倒されてしまっただけです」

「違う! 僕はもう、人間じゃない。化け物なんかに近づくんじゃない!」

あの時のことを、まるで軽い事故のように言ってのけるビアギッテ。いっそ恐怖の目で見られた方が、どれほど気が楽か。

最愛の人から拒絶され、自身の存在を否定されれば、自分が人ならざる者であるという現実をいやでも直視できるのに。

カレンベルクは、それでも共にあろうとする彼女に苛立ちを覚えた。

「大丈夫ですわ。どんな姿でも、どんな人でも、貴方は貴方ですもの」

一瞬怯んだ様子を見せたビアギッテだったが、少しの間を置いて微笑んだ。

そうして、カレンベルクの頭を優しく撫でた。

「……ビアギッテ、すまない」

「なぜ謝るのですか? 貴方は悪いことなど、何もしていませんわ」

カレンベルクは俯き、ビアギッテにされるがままになった。

優しい彼女を怪物になどしてはならない。彼女を連れてどこか遠くへ逃げなければ。

カレンベルクは新たな覚悟を固めたのだった。

カレンベルクはスクールがある山岳地帯とローゼンブルグ周辺の地図を密かに入手した。

次にバイオリン工房に出向くという名目で扮装用の襤褸着を調達し、当座凌ぎで隠れるための寂れた宿も探し、少しずつ脱出に関する手筈を整え始めた。

残る問題はビアギッテの説得だった。彼女はまだ自分が置かれている世界が危ういものであるとは微塵も思ってもいない。

それでも、彼女が頷けばすぐにでもスクールから脱出できるよう、準備を進めていった。

準備が完全に整ったとき、カレンベルクはビアギッテを自室に呼び寄せた。

「こんな時間にどうされました?」

寄宿舎の消灯時間はとうに過ぎていたが、監督生としての優遇か、教師らに何も咎められることなくビアギッテを呼ぶことができた。

とは言え、見回りの教師が巡回に来るまでにはビアギッテを説得しなければならなかった。

「ビアギッテ、今から言うことをよく聞いて欲しい。驚くかもしれない、怖いかもしれない、それでも僕を信じて欲しい」

カレンベルクは真剣な態度でビアギッテにスクールの実体を告げた。

自分は何かしらの処置を施されて化け物のようになってしまったこと、自分の父親がスクールを作った人物と共に恐ろしいことを計画していること。

「そんな。私も怪物になってしまうの……?」

ビアギッテは話を聞き終えると、青い顔をして震えた。

「そんなことは僕がさせない。だからビアギッテ、一緒にここから逃げ出そう」

「カレンベルク様……」

ビアギッテはカレンベルクの目を見つめて頷いた。

二人は用意した襤褸服を纏うと、窓から縄梯子を降ろして寄宿舎から脱出した。カレンベルクは頭に叩き込んでおいた獣道を、ビアギッテの手を引きながら早足で進んでいく。

獣道を進めばローゼンブルグの第十階層隔壁と第九階層隔壁の間に流れる堀に通じる川に出る。そこから川を下れば、ローゼンブルグの中流層が暮らす第十階層へ抜けられる。

ルピナス・スクールはローゼンブルグの支配層が管轄している。中流層の第十階層に入り込んでしまえば、隔離された階層が仇となって、支配層でも追うには時間が掛かると予測がついた。

しかしそれは一種の賭けでもあった。支配層は強大な権力を持っている。階層の壁など容易く破る可能性も大きかった。

「ビアギッテ、大丈夫かい?」

「えぇ、なんとか……」

カレンベルクはビアギッテの様子を気に掛けながら獣道を進んだ。漸く、山岳から流れる大きな川が見える谷に辿り着いた。

その場所に着いた途端、ビアギッテの足が止まった。

「どうしたんだい? もうすぐ隔壁に出る、そうしたら脱出もすぐ……」

言葉は空を切る音で中断される。カレンベルクの腹に鋭利な何かが突き刺さっていた。

「いけませんわ、カレンベルク様」

いつもの優しげな表情のまま、ビアギッテはカレンベルクの腹から血塗れた指先を引き抜いた。

綺麗に整えられていた爪が、刃物のように鋭く伸びていた。

「ビア……ギッテ? ……まさ、か」

「ええ、そうです。私も貴方と同じになりたくて。お父様にお願いしましたの」

恍惚の表情で自身の爪を見るビアギッテに、カレンベルクの目から自然と涙がこぼれた。

間に合わなかった。ビアギッテは既に自分と同じものになってしまっていた。その悔しさは腹の傷の痛みさえも凌駕していた。

「だから、逃げる必要なんて無いんです。善き世界のために、私たちはこれからもずっと一緒ですわ」

ゆっくりとカレンベルクの涙を爪で拭う。

「スクールで傷を治してもらいましょう。そうすればきっと、貴方のお父様の言うこともおわかりになりますわ」

「だめ、だ……」

ここで連れ戻されては、自分もビアギッテと同じようになるという確信があった。

そうなればもう二度と彼女を救うことはできない。カレンベルクは最後の力を振り絞って、川へと飛び込んだ。

急流に流されるうちに、出血と身体の冷えが原因か、意識が遠くなっていった。

「―了―」