31マルセウス3

3132 【自我】

驚愕する私を、ステイシアは微笑みながら見つめていた。

「何故、君は……」

それ以上の言葉は出てこなかった。私は、在り得ない筈の光景に相応しい言葉を持っていなかった。

「ナニー、ステイシアの人格データはどうなっている。目の前の彼女は人工知能エージェントではないのか?」

「この立体映像の人物に該当するエージェントは存在しません」

「私の存在が不思議? それもそうね、まずはそれから説明しましょうか」

ナニーとのやり取りを聞いたステイシアは、指を鳴らした。

クローンの製造状況を映していたモニターに、漆黒の球体が映し出される。

漆黒の球体には大小様々な半球体が張り付いており、まるで泡のようにそれぞれが連なっていた。

脳細胞のようだ。私は直感的にそう思った。

「これはいま私たちがいる『因果』を知覚できるように視覚化したものよ。球体の一つ一つが独自の法則で活動する別の世界なの」

「因果とは?」

「一つ一つの可能性の繋がりよ。 全ての可能性は連なっていて、世界は無数に存在するの。 普通は見ることもアクセスすることもできないわ。だけど、私だけはこの『因果』に触れることができるの」

漆黒の球体に画像がフォーカスしていく。その中心には、煌めく水晶のような結晶体が鎮座していた。

「これは?」

「これはヴォイドの中心で、本当の私がいる場所。そして、貴方が最も望むものを手に入れられる場所でもある」

「この場所に何があるというんだ。完全なクローン技術か? それとも死者の記憶を正しく取り出すことができる技術なのか?」

「一つの概念に固執しては駄目よ。人の理に縛られていては、見えるものも見えないわ」

幾度となく続いた失敗が私の心を焦らせていた。それを見抜いたステイシアは私を窘めた。

それは、もどかしさに身悶えていた幼児期にあやされたような、ひどく懐かしい感覚だった。

私は落ち着きを取り戻そうと努力した。

「すまない、もう大丈夫だ。続けてくれ」

「貴方たちの言葉で言い表すとしたら、ヴォイドはあらゆる可能性を自在に選び取ることができる『夢』の世界ね。私がここにいるのも、私がそう望んだからよ」

「自分が望んだままの世界が現れると、そう言いたいのか」

彼女の言葉を一つ一つ頭で整理すると、目の前の存在を含め、信じ難い事ばかりであった。

「そう。意思の力で最も望むものを得ることができるの。例えばそうね、掌に収まる小さな林檎」

ステイシアの掌に小さな林檎が出現した。

「それは映像だろう。君が作り出した只の映像だ」

私は大きく息をついた。ステイシアの言葉の真偽を見極めなければならない。冷静になる必要があった。

「どうかしら? 受け取ってみて」

ステイシアの手から林檎が無造作に手渡された。私の手に収まった林檎は、紛れもない現実であるという重みがあった。

「……まるで御伽噺だな」

そう口にした瞬間、林檎は虚空へ消え去った。

「そう、御伽話ね。語ったことや思ったことが事実になる世界、私がそういう世界を選択したの」

「私はどうすればよいのだ?」

「ここにいる私は影みたいなもの。本当の力をこの世界に及ぼすことはできないの。さっきの林檎のように」

手にはさっきの林檎の感触が残っていた、確かにそれは存在していた。

「だからこの世界と私のいるヴォイドを繋ぐ道を作る必要があるの」

「道か」

「でも、それはとても難しいの。昔、道を作ろうとして失敗した男がいたわ」

ステイシアは黙ったままの私を見つめながら話を続けた。

「失敗したあと、どうなった?」

「今の世界ができたのよ。可能世界との扉である『渦』に覆われたこの世界が」

私は自分が生まれた理由を思い出していた。

「今度は時間と準備が必要。もう一度厄災が起これば、この世界は存在できなくなってしまう」

「私にできることなのか?」

「普通の人間には無理ね。でも、今の貴方ならできるかもしれない」

渦の混乱から人々を救うために産み出された自分には皮肉な提案であった。あの厄災と同じ事を自分が引き起こすかもしれないのだから。

「どう? 本当にやる?」

「それでも、私はやらねばならない」

私はステイシアの目を真っ直ぐに見据えて答えた。やるしかなかった。例え世界が滅びようとも、彼女――アリステリア――のために。

「そう、その意志が必要なの。全てを投げ打つ狂気と変わらぬ意志。それだけが世界を変えられるの」

ステイシアは心底嬉しそうにそう言った。

私にはもう迷いは無かった。ステイシアの目を見て、しっかりと頷く。

「準備のためのデータを送るわ。 まずは時を待つの、貴方ならできるわ」

ステイシアは笑う。その様子に子供の頃の、あの淡い感情が蘇った。

そして彼女の映像が少し薄くなった。

「そろそろ時間ね。データはナニーに送り終えたわ」

「行くのか?」

「この世界との繋がりはとても不安定なの。またしばしのお別れよ」

「また会おう」

私の心には高揚があった。ステイシアの導きで己の道を定めることができた。

ステイシアは満足した笑みを浮かべながら、黙って消えていった。

ステイシアからもたらされた膨大なデータを元に、ナニーと計画を開始した。

最初に帝都から少し離れた広大な森林地帯を国有地として買い上げ、その中心部に城と見紛うほどの厳重な警備を敷いた皇帝廟を完成させた。

同時に、アリステリアのクローンを再び作り上げた。この計画の遂行には帝國の統治体制も変更する必要があった。

求心力のある指導者がいない状態で帝國を維持するのは不可能だ。それを防ぐためには統治者である私が健在であり、その言葉を国民に伝える『アリステリア』が必要だった。

アリステリアのクローンに上等教育を施し、代々皇帝の言葉を伝える一族であり、母も祖母も長い間私に仕えていたという偽りの記憶を植え付け、彼女を尖塔へ送り出した。

そして、神託という形で私の言葉をアリステリアが大臣達に伝える手法の確立を見届けると、私は再び国民の前から姿を消し、皇帝廟へと入った。

次は自分自身を変えなくてはならなかった。

この計画は、決して誰からも協力や助力を得ることはできない。全てを私自身の手で遂行する必要があった。

そして時間も限られていた。その中で全ての準備を終わらせなければならない。

まずは私の自我と記憶を保存、管理するための、強固で強大な器をナニーに作らせた。

そして、肉体側の記憶チップに特殊な信号を送受信する小さな装置を取り付ける。

私の自我と記憶を、母体となる器を介してクローン同士で共有するのだ。そうすれば、私はこの世界に遍在することになる。そこには背信も他者の思惑も存在しない。

「ナニー、実験を開始する」

「本体の記憶と自我をクローンに送信します。20、30……」

ナニーのカウントが始まる。記憶や自我がガラスの向こうに眠るクローンにフィードバックされる。

「……100。ナンバー002の意識を浮上させます」

「わかった」

ガラスの向こうで私が目覚めた。それと同時に、視界が点滅し始める。

二つの五感が同時に『私』に送られてくる。感覚情報が混ざり合い、どの『私』を起点にすべきなのか、本体が混乱を起こしていた。

「五感情報の錯綜を確認。クローン体の脳細胞への負荷増大を確認。ナンバー002の意識を強制遮断します」

ナニーの声が四方から襲い掛かる。その声は二つの脳を大きく揺さぶった。

ガラスの向こうの自分が倒れた。同時に五感の混乱が無くなる。私はあまりの事態に膝を突いた。

二人の身体を一つの自我で制御するだけでこの有様である。無数のクローンを一斉に目覚めさせたとき、私は果たして私でいられるのだろうか。

幾度とない実験の果てに、記憶と自我は一つの肉体が継承する方法に辿り着いた。

マスターとなる肉体以外は全て意識も自我もない生体ロボットとすることで、自我の混濁と記憶の混乱を防いだ。

クローンの行動を脳に埋め込んだ記憶チップで厳密に管理し、得た情報の全ては一定時間ごとにナニーへと送られた。

ナニーは送られてきた情報を処理し、最適化された記憶として『私』に送る。

「マルセウス、現在のクローン体では増え続ける記憶に脳細胞が耐え切れません」

「そうか。ならば肉体そのものを強化するしかあるまい」

私はナニーに命令を下した。耐え切れないのであれば、耐えられる肉体を作る。それだけだった。

「我々はカストード。我々の最愛の者を取り戻すために――」

実験と試行錯誤の果て、皇帝廟の奥深くには無数の『私』がいた。遺伝子的な改良を施され、身体能力も知覚能力も常人を遙かに超えた、人でありながら人ならざる何か。

それが『我々』だった。

我々は世界に散った。強化された身体を使い、多数の我々が渦の蔓延る世界を巡る。

全てはアリステリアと再び歴史を紡ぐため。それだけが、我々の存在意義であった。

「―了―」