43ビアギッテ2

3365 【魔】

ビアギッテがプライムワンのボス、デラクルスに身請されてから暫くの時間が過ぎていた。

デラクルスはいつもビアギッテを同伴者として連れ歩き、その美貌を幹部達に見せ付けるようにしていた。

だが、錯乱して死んだ幹部の情婦だったという過去が覆る筈もなく、ビアギッテは常に懐疑と嫌悪の視線に曝されていた。

「あの女、うまいことボスに取り入ったな」

「馬鹿野郎、下手に他の幹部に渡ってみろ。それこそガイの二の舞だ」

「ボスもああならなきゃいいがな……」

このような囁き声が、絶えることなくビアギッテの耳に届いていた。

「お前は美しくなることだけを心掛けろ。それ以外は気にする必要はねぇ」

侮蔑の言葉がビアギッテに聞こえる度に、デラクルスはそう慰撫していた。

「もっとスピードを出せ! このままじゃ追いつかれる」

銃声が聞こえてきた。ビアギッテとデラクルスが乗った車は、銃声から遠ざかるように寂れた路地を猛スピードで走り抜ける。

「もうすぐソルジャー達が待機する場所に出ます。あと少し辛抱してください」

ある日のパーティの帰路だった。ビアギッテはデラクルス共々、他組織からの襲撃を受けていた。

どこの組織の者かはわからなかった。縄張り争いは日常茶飯事であったため、襲撃を受けただけで見当を付けることは困難であった。

車の後輪に弾が当たったのか、車が傾いた。運転手の必死のハンドル捌きもあって、道を塞ぐようにしてだが、何とか路地裏に停止した。

「クソッ、やってくれたな! ボス、ビアギッテ様、申し訳ありません」

「謝罪は生きて戻ってからだ。今すぐここから移動するぞ」

大きな路地から車のエンジン音が近付いてくる。追っ手はすぐそこまで迫ってきていた。

運転手と護衛がビアギッテとデラクルスを庇うように車外へ出る。ビアギッテはその光景を見た瞬間、フラッシュバックのようなものに襲われた。

嘗て、こうやって何かから逃げ、似たような場面に遭遇したような。そんな気がした。

「待ってください。この車、もう使えないのですね?」

「ここに捨てていく。それがどうした」

「爆破しましょう」

「無茶です。そんなことをすれば、こちらの居場所が知られてしまう」

「だからこそです。この路地に続く道はこちらのソルジャーの待機場所にしか繋がっていません。ここが火の海になれば、敵はこれ以上私達を追えなくなるのでは?」

ビアギッテは周辺の地理を覚えていた。何かあった時のためにとデラクルスに渡されていた地図を、頭の中に叩き込んでいたのだった。

デラクルスはビアギッテの目を見つめた。ビアギッテは真剣な眼差しでデラクルスを見つめ返す。

「わかった。バラッキは先導して安全を確保。ベーム、お前は車に火を点けてから来い」

「わ、わかりました!」

「行きます!」

バラッキの合図と共にビアギッテとデラクルスは小走りに路地を進んでいく。運転手のベームが後ろから走ってくるのが見えたと同時に、車のあった方角から熱風が吹き付けてきた。

その後は敵が追ってくることもなく、無事にプライムワンが所有する邸宅の一つに戻ってくることができた。

後日、この襲撃事件は縄張り争いに負けたパントリアーノの構成員が報復として仕組んだものであったと、幹部から伝えられた。

「ビアギッテ、これをお前にやろう」

事件から少しして、ビアギッテはデラクルスから綺麗な包装を施された箱を受け取った。

「素敵な手鏡ですわ。ありがとうございます、ボス」

「この間の礼だ」

「大事にいたします」

機転によって自身の危機を救ったことで、デラクルスはビアギッテを尚更に信頼するようになり、単に連れ歩くだけでなく、仕事中も彼女を傍に置くようになった。そのため、ビアギッテは情婦・愛人としての役割だけでなく、デラクルスの秘書としてプライムワンの奥深くに関わるようになっていった。

ある日、ビアギッテはプライムワンの資金洗浄計画の一部に不審な数字の改竄があるのを発見した。

「ボス、少しご相談が」

「手短に頼む」

「カバネルの担当している資金洗浄に不審な改竄を見つけました。資料はまとめてあります」

「そこに置いてくれ。あとで見る」

ビアギッテはすぐに見られるよう資料を整え、デスクの脇へと置いた。それでこの件は終了する筈だった。

数週間後の深夜、自室で休んでいたビアギッテはデラクルスに緊急の要件で呼び出された。

普段とは違う緊張した雰囲気に只事ではないと感じたビアギッテは、ポーチに手鏡と護身用の銃、そしてお守りのウサギのぬいぐるみを忍ばせてデラクルスの執務室へと向かった。

執務室では隠しきれない憤怒を湛えた表情のデラクルスと、下碑た笑みを浮かべているカバネルがいた。

幹部の一人であるカバネルはビアギッテの存在を初めから快く思っていない人物で、ビアギッテがデラクルスから何かを任される度に、反対の声を上げ続けていた。

「ビアギッテ、こないだの資金洗浄の件だが……。あれはお前がやったんだな?」

「何を仰っているのか、わかりませんわ」

「しらばっくれるんじゃねぇ。オレを嵌めようとしやがって。証拠は全部あがってるんだよ!」

デラクルスの横でカバネルが何かの書類をひらひらと振っていた。内容は読み取れなかったが、何かビアギッテが不利になるようなことが書かれているのだろう。

この男に嵌められた。ビアギッテはそう直感した。根拠は無いが、カバネルの粘着質な笑い顔が、そうであると強く言っているような気がした。

「違います」

「強情な女だ。素直に認めれば、殺さない程度の恩情を掛けてやったものを」

「ボス。どうします?」

「殺せ。秘書の真似事をさせた途端にこれとはな。とんだ女だ」

逃げなければ。ビアギッテは本能的にそう感じていた。まだこの場にはカバネルとデラクルスの二人しかいない。

ビアギッテはポーチから銃を取り出すと、カバネルとデラクルスの足元に向かって発砲する。咄嗟に二人がビアギッテと距離を取った隙に、ビアギッテは部屋の外へと出た。

「逃がすな! 追え!」

カバネルの声が廊下に響く。すでに手配されていたのだろうか、ソルジャー達がこちらに向かって駆けてくる。

ビアギッテは誰も使わない小さな部屋に入り込むと、そこの窓から屋敷の外を窺った。誰もいないことを確かめると、ロングスカートの裾を太ももまで破って簡単なロープを作り、それを窓枠に括り付けて屋敷の外へと出た。

茂みに隠れて裏門の方へ進み、銃を構えて周囲に注意を払う。

しかし、小枝を踏み締めた音で見張りに気付かれてしまった。

「いたぞ! ベーム、急げ」

「よし、わかった」

ビアギッテを見つけたのはバラッキとベームであった。

バラッキはビアギッテをみつけるや否や、彼女にフードの付いた外套をすっぽりと被せた。

「あの時、アンタには命を救ってもらった。ここで借りを返す」

「行け! オレ達は何も見ていない」

更にベームはビアギッテに小さな鞄を手渡した。

ビアギッテは小さく頷き、そのまま裏口から屋敷の外へと走り出した。

「いたぞ! あっちだ!」

屋敷の外は隠れる場所が多かった。だが同時に配備されているソルジャーの数も多く、彼等は血眼になってビアギッテを見つけ出そうとしていた。

ついにビアギッテは寂れた倉庫へと追い詰められ、ソルジャーの一人に拘束されてしまった。

「おとなしくしろ」

「離しなさい!」

ビアギッテが抵抗すると、鞄からウサギのぬいぐるみが零れ落ちた。それを拾おうと、ビアギッテはソルジャーの腕に噛み付いて振り解こうとする。

「っ!? このアマ!」

ぬいぐるみを拾おうとするビアギッテに、ソルジャーが銃の引き金を引いた。

銃弾がビアギッテの腹部に命中する。同時に、何かが割れる音がした。衝撃と痛みにビアギッテは仰け反る。

硝煙の匂いと静寂だけが残った。

「て、抵抗なんかするからだ! お、俺達で好きにしていいとボスが情けを掛けてくださったというのに!!」

沈黙を破って、ソルジャーは興奮したように一人で喚きだした。

『我が眠りを妨げるのは、何者ぞ』

不意に、地面の底を這うような声がソルジャーの耳に届いた。

「ま、まだ生きてやがるのか!?」

ソルジャーは動かぬビアギッテに向けて何度も引き金を引いた。

銃声は確かに響いた。だが、銃弾はビアギッテに当たる寸前で停止していた。

『お前か。我が主となる者を傷つけるのは』

ソルジャーの眼前に異様な風体の人型が立っていた。髑髏のような顔、額から生えたうねる角。そして、ソルジャーを覆うほどに広がった外套に光る無数の赤い瞳。

「あ、あ、悪魔……」

その呟きを最後に、倉庫に静寂が戻った。

程なくして別のソルジャーがその倉庫にやって来た。そこに残されていたのは、恐怖に引き攣った表情のまま息絶えたソルジャーの遺体だけだった。

「―了―」