35ヴォランド3

3372 【守護天使】

ローゼンブルグ郊外の別宅に辿り着いたヴォランドを出迎えたのは、祖父のセドリックであった。

久しぶりに見た祖父の顔は、心なしか窶れているように見える。

「怪我はないか」

「大丈夫だよ」

「よかった……。本当によかった……」

セドリックはヴォランドを抱きしめた。その腕が僅かに震えているように、ヴォランドには感じられた。

「お、おじい様? ねえ、おじい様ってば」

祖父に抱きしめられたことなど片手で数えるほどもなかった。それでも、祖父の腕の中はとても暖かかった。

「あ、あのね、オウランが、まも……って、くれて。それ、でっ。こわ、こわかっ……」

皆や祖父がいる前で、ヴォランドは大きな声を上げて泣いた。

祖父には怖がったり泣いたりする様は見せまいとしていた緊張が、ここにきて一気に解けた。

ようやく、ヴォランドは自分が襲われた恐怖に対して素直に向き合うことができたのだった。

一週間程が経ち、ヴォランドはセドリックの居室に呼び出されていた。

ヴォランドの気持ちは落ち着いてきていた。襲われた恐怖を思い出して夜中に飛び起きることも無くなっていた。

「ヴォランド、お前に話さねばならないことがある」

普段以上に厳しい様子の祖父を見たヴォランドは、自然と居住まいを正した。

「本来なら、お前がもっと分別を得た時に話すべきだと考えていたのだが――」

祖父はそう前置きをしてから話し始めた。

――今、ローゼンブルグの治安は全ての階層で悪化の一途を辿っており、その主要因は犯罪組織や狂信的な宗教集団によるものであるということ。

――その者達はローゼンブルグを支配するべく、あらゆる犯罪を用いて市民を脅かしていること。

――それ故、ローゼンブルグの上級階層の一族は、常に危険に曝されていること。

「そして、クリストファー達も……」

クリストファーはヴォランドの父の名前であった。その名を口にしたセドリックは、どうしようもない苦悩に満ちた表情で、重々しくヴォランドを見つめていた。

「殺されたの?」

セドリックの言葉と表情で、ヴォランドは悟ってしまった。自分の両親は事故ではなく、犯罪に巻き込まれたのだということを。

「この事だけは、まだお前に知って欲しくなかった」

「バートン先生が、僕を……殺そうとした、から。だよね……。僕を外の学校へ通わせなかったのも……」

「こうなってしまっては、もう隠しておくこともできない。お前だけは、儂の手で守っていくと誓ったのに」

「おじい様……」

ヴォランドは何か言おうとしたが、後に続く言葉を持ち合わせていなかった。

ただ、祈りを捧げるように項垂れる祖父を見ていることしかできなかった。

それからヴォランドは、辞書を片手に新聞を纏めた書物を読むことを始めた。

子供用に作られた表現が軟らかくて読みやすいものではなく、成人に向けたものを中心に、一心不乱に読んでいた。

父と母の命を奪い、そして今も人々の生活を脅かす存在を、どうにかしてローゼンブルグから一掃しなければ。行動を起こせる大人になってからでは遅すぎる。知識を吸収し、早く祖父を支えられる人間にならなければいけない。そのためには、犯罪集団が今まで起こした事件の内容と、その事件が世間にどの様な悪影響を及ぼしているのかを知る必要があると、子供心ながらに考えた結果であった。

オウランはヴォランドの命令に従って、大人しく椅子代わりを務めていた。

「その記事には足りないものがあるな」

ある記事に差し掛かったとき、頭の上からのんびりとした男性のような声が聞こえてきた。

「お、オウラン?!」

「その事件では、犯罪組織による偽の証拠を捜査当局が信じた結果、誤認逮捕が起きている。その経緯が書かれていない」

先の事件があった後、オウランは自発的に動いたり言葉を喋ったりするような様子を見せることは無かった。

あれは偶然で、オウランが喋ったように見えたのは自分の恐怖が生み出した幻だったのかもしれない。そんな風に思い始めていた矢先のことであった。

「その事件を詳しく知るなら、こっちだ」

驚くヴォランドをガラス質の目で眠たそうに見つめると、オウランは積み上げられていた本の中から一冊を選び取り、ヴォランドの目の前に置いた。

「ね、ねぇオウラン、喋れるの?」

「ああ、そうだよ。それにしても腹が減ったな」

事も無げに欠伸をする。人間のようなその行動に、ヴォランドは久方ぶりに面白いと思った。

「人形なのにお腹がすくの?」

「オレは高貴な大熊猫様だからな。腹くらい減る」

「何か食べ物を運んできてもらおう! 何がいい?」

「あー、そうだな。果物。果物がいい」

「待ってて!」

程なくして、使用人が果物を運んできた。使用人が部屋にいる間は微動だにしなかったオウランだが、使用人がいなくなると緩慢な動きで果物を食べ始める。

「ねえオウラン、どうしてこの本が間違ってるってわかったの?」

「ん? オレは黄金時代に作られたからな。何でも知っているんだ」

「黄金時代! ねえ、それほんと!?」

「大熊猫様は嘘をついたりはしないんだ。何しろ偉いからな」

「凄い! 凄いよ、オウラン!」

ヴォランドはオウランの様子にいちいち感心する。ローゼンブルグには他の都市に比べて機械文明が残されているとはいえ、ヴォランド自身、自意識をもって動く自動人形は御伽噺の中のことだと思っていた。

「やっと笑ったな」

「え? あ……そういえば」

ヴォランドは、ここ暫く自分が笑っていなかったことを思い出した。

使用人達は皆ヴォランドを神経質なまでに気遣い、自室に籠もっている彼の様子を遠巻きに見守っているだけだった。そんな環境もあり、ヴォランドは誰にも構われることなく、ただ犯罪組織の情報を得るために書物を読み耽っていた。

テロリストの襲撃を受け、父と母の死の真実を知ってから、様々な感情に鈍感となっていた自分に、ようやっと気が付いたのだった。

「ああ、ご主人様からのお言葉だ」

いつものように自室で書物を読んでいると、やはり椅子代わりをしていたオウランが、唐突に奇妙なことを口走り始めた。

「オウラン? どうしたの」

「ご主人様がオレを労ってくださる。お前もご主人様にご挨拶するのだ」

「何を言っているの? 君の主人はボクだよね?」

「ああ、そうだったな。今は、そう。でも、オレには昔からのご主人様がいらっしゃる」

「昔のご主人様ってこと?」

「どうかな? 今もそうかもしれん。さあ、お前にも見せてあげよう」

オウランの腹部からつるりとした板のようなものが出現した。

見たことのない不思議な板を不思議そうに眺めていると、不意に、板が明かりのように点灯した。

「貴方がヴォランドね」

ヴォランドより少し年上だろうか。無邪気そうな笑みを湛えた少女が板に映った。声もその板から聞こえてきているようだった。

「君……は?」

呆然とするヴォランドに、少女は少し考える素振りを見せる。

「オウランの昔のご主人様よ。今は友達として、こうやって時折お話をしに来るの」

少女は無邪気な笑みから悪戯っぽい笑みに表情を変える。

「貴方の事はオウランから聞いているわ。凄く賢い、良いご主人様だって」

「へへ、ありがとう」

ヴォランドは照れくさそうに頭を掻いた。少女との会話はどこかこそばゆいものがあった。学校に通っていないヴォランドが同年代の異性と会話をする機会は、殆ど無いのだ。

「だから、貴方に何かお礼をしなきゃと思ってね。いま貴方が最も望むものをあげるわ。でも、一つだけね」

少女はヴォランドに笑いかける。ヴォランドはその言葉に目を丸くした。

「そんなことできるの!?」

「ええ。私は不思議な力を持っているの。こうやって貴方とお話をしているのも、その力のおかげ」

「オウランも凄いけど、君も凄いんだね!」

「うふふふ。さあ、ヴォランド、貴方は何が欲しい? 一つだけ、叶えてあげる」

板の中の少女は手を広げる。板越しではあるが、否応なしにしなやかさを想像させる動きだった。

暫くの沈黙が空間を支配する。ヴォランドは考えていた。今、自分が何を求めて行動しているのか。子供の自分に足りないもの、大人になったらできること。祖父をもう悲しませたくないこと。たくさんヴォランドは考えた。

「悪い奴らをこらしめる、大きな力が欲しい」

沈黙を破り、ヴォランドは強い口調で、そしてとても静かに言葉を発した。

「後戻りはできないわ。それでもいいのなら、オウランの手を握ってちょうだい」

躊躇うことなくオウランの手を握ると、ヴォランドは体が熱くなってくるような感覚に襲われた。

祖父の顔、使用人ケイシーの顔、そして朧気になっている筈だった父と母の顔。それらが次々と思い浮かんだ。

「それが貴方の力よ、ヴォランド。どう使うかは貴方次第」

明滅する意識の中、少女の声だけがヴォランドの耳に聞こえていた。

ヴォランドが少女と邂逅してから暫くして、奇妙な噂がローゼンブルグに広まった。

鋼鉄の身体を持つ何者かが犯罪組織や狂信的カルト宗教集団を次々と襲い、彼等に甚大な被害をもたらしていると。

そして、その何者かの活躍によって瓦解した犯罪組織のいくつかは、警察機構によって壊滅に追い込まれていた。

ローゼンブルグ第七階層レアンド地区にある屋敷で爆発が起きる。

そこは誰もが口に出すことすら憚る、犯罪組織『プライムワン』が牛耳る区画であった。

「いくよ、セレスシャル」

鉄でできた彫像のような人型が闇夜を飛ぶ。

その腕の中には、ヴォランドの姿があった。

「―了―」