44クーン2

—- 【太陽の華】

――もし、そこの貴方。さる若い天才画家が死の瀬戸際まで描き続けたと言われる、最終にして最高の傑作美女画、『太陽の華』をご存知かね?

花を抱えて微笑む美女が描かれた何の変哲もない絵画だが、その価値およそ一億。まあ、微笑と不思議な逸話に狂わされた、金の亡者どもが値を吊り上げた結果だがね。

知りたがりの貴方には特別に教えて進ぜよう。この絵画の生誕と美の秘密を。――

「こんなもん、うちでは買い取れん!」

「そこをなんとか! これが売れなきゃ路頭に迷っちまう!」

大判のキャンバスを抱え、俺は画廊の店主に食い下がった。

「うちの店は信用第一なんでな。紹介状も無いお前の貧相な絵なんか、扱えやしないんだよ。とっとと出て行け!」

店主に慈悲は無く、やって来た警備員によって俺は店の外につまみ出された。人通りの多い店先にいきなり放り出された小汚い俺。道行く人の視線がとても痛い。

絵描きはパトロンが付いてナンボ。そんなことは俺だって重々承知だ。それでも、いま抱えているこの絵が売れなきゃ、今日の飯もお預けだ。

そう思うと同時に盛大に腹が鳴り、ここ何日かを水と塩だけで凌いでいたのを思い出す。

少し歩いた軒先の隅っこで、浮浪者のように丸まって溜め息を吐いた。もう日は暮れかけていた。住んでいる部屋はまだ遠い。

「ちょっとあなた。私の店の前で寝ないでくださる?」

綺麗な声が頭の上から降ってきた。人の迷惑になるつもりはなかった。だから、すぐに立ち退こうと思った。

「うぇ? あ、ごめんなさい。すぐにどきますか……ら……」

突然目の前が真っ暗になって、体の感覚が無くなった。

「やだ、大変! 誰か! お医者様を!」

慌てる綺麗な声だけが、俺の耳に届いていた。

朝日の光で俺は目を覚ました。ぐわんぐわんと揺れる頭で周囲を見回すと、豪華な調度品に囲まれた、随分と派手な部屋にいるようだ。

寝ているベッドも掛けてある毛布も、この派手な部屋に相応しい極上品だ。調子が悪いのに任せて、そのまま二度寝を決め込みたいところだった。

「おはよう、気分はいかが?」

そんな俺の堕落した欲望は、気絶する前に聞こえたあの綺麗な声の登場で完全に吹っ飛んだ。

「あ、ハイ……」

「よかった。お医者様がおっしゃるには栄養失調だろうって。あとでスープを運ばせるわね」

美女の言葉が右から左に抜けていく。だって、いやね、もうね、すごいの。文句の付けようがない、完璧な美女。

すっと通った鼻筋に均整の取れた小さな鼻。夕暮れと夜の狭間のような青紫の瞳は大きな存在感を放ってる。やや先端がカールしている髪はシルクのように艶っつや。ちょっとぽってりとした唇に引かれた赤いルージュが、猥らにならないぎりぎりのラインで絶妙に色っぽい。

だから俺、思わず言っちまった。

「お、俺の絵のモデルになってください!」

美女は目を瞬いた。瞬く度に青紫の瞳が、星が零れてくるんじゃないかってくらいに煌めいている。

「え、ええと、その。つまりあなた、画家ですの?」

「そうです! 俺、人物画が得意なんです。貴女のような素敵な方、もう二度と出会えないかもしれない!」

我ながら言ってることが滅茶苦茶だ。しかも助けてもらったお礼も忘れて、美女に目が眩んで懇願なんかしちゃって。

「……ふぅん。いいわよ。 でも、描くならとびっきり綺麗に描いてちょうだい」

暫く考えるような素振りを見せた美女は、日の出のような華やかな笑みを浮かべて頷いてくれた。

美女の名前はクーラといった。女性ながらアンティークや雑貨を扱う商社を経営する人で、俺が倒れた軒先は彼女が経営する小売店の一つだった。

俺は世話になった次の日からクーラの屋敷に通い、彼女をデッサンした。そうしたデッサンを元に彼女の絵を描いていく。

ある日、彼女をアトリエに呼び寄せた。完成した彼女の絵を本人に見てもらうためだ。嬉しいことに評価は上々。この絵は屋敷に飾ってくれるらしい。

「あら、この風景画とっても素敵ね。こっちの静物画は応接室に合いそう。お代は出すから、これも持って帰っていいかしら?」

絵を包む間、他の作品を見ていたクーラがいくつかの絵を引っ張り出してきた。

「そりゃあ構いませんが、でもそれ、画廊に持ってっても売れなかった失敗作ですよ?」

「よっぽどの節穴だったのね、そいつ。まあいいわ。私に任せなさいな」

クーラは妖しげな笑みを見せると、気に入ったという物も含め、俺のアトリエに置いてある全ての絵を持っていってしまった。

けれども、何度画廊に足を運んでも一度たりとも買い取られなかった俺の絵だ。売れずに落胆するクーラの顔が思い浮かび、何だか凄く悪いことをしているような気分になった。

数日して、クーラが大きな鞄に札束を詰めてアトリエにやって来た。聞けば、屋敷に置けなかった絵をクーラが経営する画廊に置いたところ、かなりの高値で売れたらしい。

「これがあなたの価値よ、バスコ」

一生お目に掛かることなんて無いと思っていた札束の量にポカーンとしていると、クーラは微笑んだ。

俺はクーラをモデルにデッサンを取りまくった。

クーラは俺の才能を高く買ってくれていた。その期待に少しでも応えたくて、俺は絵を描きまくった。何枚も何枚もクーラを描き続けた。

そうやっているうちに、少しずつ俺のアトリエに絵の依頼を持ち込む客が増えてきた。描けば描くだけ絵は売れた。

「はあ? まだ完成してないって? もう半年も待ってるんだぞ!」

「すみませんねぇ。どうにもピンとこなくて」

俺は絵が売れていくにつれて、少しずつ少しずつ、絵を描かなくなっていった。加えて社会に迎合できない性格だ。依頼の反故の仕方も、こんな風にあり得ない程に適当だった。

それでも俺の絵は高値で売れた。だからスランプとか、いまいち創作意欲が湧かないとか、そんな適当なことを言えば大体の客は引き下がった。

「さーて、遊びにいこ。今日はどこに行こうかなー」

俺はこの数年、クーラの依頼以外では殆ど筆を取らなかった。起きて、遊びに行って、たまにクーラの絵を描いて、寝る。そんな自堕落な生活を続けていた。

金に縁がなかった奴が突然大金を手にしたんだ。そりゃあ、仕事なんかしないで遊ぶよね、って話。

でも、クーラを裏切ることだけはしなかった。俺の才能を認めてくれた初めての人だったし、何より俺はクーラに惚れていた。

一度身についた贅沢な暮らしからは、どうにもこうにも抜け出せなかった。金が無くなった俺は、筆を取らずに金を借りることで贅沢を維持していた。

とうとう連日のように借金取りがやって来るようになった。あんまりにも煩くて、どうしようもなくなって、俺はクーラに泣きついた。

「ごめんなさい、それはあなたの責任なの。私にはどうしようもないわ」

「そんな……」

「だって私が借金を返したら、あなた、またどこかで新しい借金をするでしょう?」

「え、あ……」

クーラの言うことは尤もだった。俺は自分に任された仕事を放棄して遊んでいる。ここでクーラが問題を解決してしまえば、それは俺のためにはならない。

彼女は俺が抱える大きな問題点を見抜いていた。

「私はあなたの絵、大好きよ。だからまた描けばいいのよ。描いて描いてまた描くの。そうすれば借金なんてすぐに返せるわ」

俺の女神は微笑んでいた。そうだった。遊ぶことに熱中しすぎて、俺は当たり前のことを忘れていた。

俺は筆を取った。アトリエに籠もってキャンバスに向かい続けた。描き掛けの絵をいくつか仕上げるとそれで借金を返し、新作にも取り掛かった。

デッサンはたくさんあった。その中でも特に気に入っている、クーラが白い花を抱えて微笑んでいるデッサンから新作を創ることにした。

題名はもう決まっている。クーラの太陽が昇るときのようなあの輝く笑顔、俺の最高の女神。そう、題名は『太陽の華』だ。

『太陽の華』は完成間近のところまで来ていた。俺は慎重に瞳に色を入れていた。夕暮れと夜の狭間のような青紫の瞳。

瞳の色と唇に乗せるルージュの色。この二つをしくじれば、絵の中のクーラはクーラでなくなってしまう。最後まで油断がならない作業だ。

瞳に色を入れきったところで、アトリエの扉を乱暴に叩く音に気が付いた。

筆を置くと、俺は外に繋がる扉を開けた。

「どちらさ――」

ズドン、と腹に鈍い衝撃。見下ろすと、浮浪者のような姿の男が血走った目を光らせて俺を見ていた。

「貴方、は」

この浮浪者のような男には見覚えがあった。いつだったか、嫁さんの人物画の依頼をしてきた金持ちだ。

「お、おおお、お前、お前が、お前がちゃんと絵を描いていれば!!!」

男はそれだけを叫ぶと、どこかへと走り去った。俺の腹は真っ赤に染まっている。その赤が何の色かを理解した瞬間、熱さと激痛が走り、頭から血の気が引いていくような感覚に襲われた。

ああ、そうか。これが俺の責任なんだな。仕事を放棄し、約束を反故にし続けた結果だ。俺が依頼を反故にしたことで何人もの人が信頼を失い、ああやって落ちぶれていったんだろうな。

何となくそんな気がした。

俺は痛みを振り切ってクーラの絵に向かう。まだこの絵は完成していない。何としても完成させなければ。今までどれだけ遊び呆けていても、クーラの依頼だけは守ってきた。だから。

いつも迷うクーラのルージュ。彼女に似合う最高の色を考え続けていたくて、いつもそこだけ色が付けられない。

早く、色を。俺は手近にあった赤を小指に付け、クーラに口付けをするように色を乗せた。そして絵の全体がよく見えるように、椅子にもたれ掛かった。

絵の中のクーラは俺に向けて微笑んでいた。唇に差した……赤がとても……とてもよく……映えている。

やっぱり、クーラ……に……は真っ赤な……ルー……ジュが……よく……に……あ…………。

「その後、『太陽の華』は、この作品のモデルとなった女性によって持ち出され、世に出ることとなりました。しかし、この絵の所有者となった者はみな不幸な目に合ったと言われております」

時は経ち、夭逝した天才画家バスコの最後の作品『太陽の華』は、名も無き小さな画廊にあった。

「不幸の原因は、この美女の唇に差されている赤だと言われております。この艶やかな赤色が災いすらも魅了し、呼び寄せるのだと」

小さな画廊の店主が身なりの良い男に、バスコと『太陽の華』に纏わる話をしている。

「ほう。話を聞いていると、この唇の赤色はバスコの血であるかもしれないということかね?」

「そういった噂も囁かれておりますが、この絵が描かれたのはもう百年以上も昔でございます」

「その噂が本当だとしたら恐ろしい話だが、だとしても、この絵にあるのは美しさだけだ。恐ろしさなど微塵も感じないね」

「まあ、不幸な亡くなり方をされた芸術家の作品には、何らかの物語がまとわりつくものでございます」

身なりの良い男は、豪快に笑った。

「よし、この絵を買うとしよう。曰くありげな物語のある絵画か、実に面白い」

「ありがとうございます」

店主は恭しく頭を下げると、店員に指示を出して『太陽の華』の梱包に取り掛かる。

「中々にいい店だ。また利用させてもらうよ。ところで君、名前は何だったかね?」

「申し遅れました。私、クーンと申します」

名も無き小さな画廊の店主は、夕暮れと夜の狭間のような青紫色の瞳を輝かせてそう言った。

――彼は、自らが死の淵に立ってもなお、完成された美を追い求めた。

その執念こそが、『私』の美をこの絵の中で永遠のものとし、後世に語り継がれる傑作を生み出した。

例えそれが、この絵を持つ者に災厄をもたらす呪いだったとしても。――

「―了―」