34ステイシア3

2790 【来訪者】

メルキオールはステイシアを搭載したロケットの座標を確認した。

ロケットは第三宇宙速度に達する前の座標にあった。が、監視用モニターには確かにステイシアが映し出されている。

実験の望外の成功に、メルキオールは色めき立った。

「次のご命令をどうぞ、マスター」

「ま、まずは君が得たものを見せてくれ」

メルキオールの言葉は震えていた。

「わかりました」

ステイシアは研究室に入り、ヴォイドでの実験観測で手に入れた少女の姿を披露した。

メルキオールは手を伸ばし、ステイシアもその手を取る。

ステイシアの手の暖かさを、メルキオールは確かめた。

「見ろ、グライバッハ! 実体だ。無から有を、エントロピーをコントロールすることに成功しているぞ」

グライバッハは二人のやりとり、いや、一人と不可思議な一体の姿を無表情で眺めていた。そして、おもむろに机に置いてあったペンを取り、ステイシアに投げつけた。

「なにをする!」

メルキオールの言葉と同時にペンはステイシアの体をすり抜け、虚しく床に転がった。

「茶番だな。 これは実体など持たぬ投影画像だ」

「馬鹿な、確かにこの手に……」

握ったまま手を引き寄せ、ステイシアの体に触れる。確かに感触はある。

「いや、まさか……」

「どうしたんだ? メルキオール」

グライバッハはメルキオールに問うた。

「いや、そうか……」

メルキオールは当惑した表情を見せた。

「マスター、申し訳ありません。実体化はまだ不可能です。この姿や感触は、あなた方の脳に微弱な信号として送り込んでいるものです」

ステイシアは答えた。

「そうか。しかしエネルギーの大小は問題ではない。世界線を超えて情報が伝わることが重要なのだ」

メルキオールは当惑の表情からすぐに立ち直った。

「グライバッハ、実験は失敗などしていないのだ。お前にも見せてやる。私の実験の意図を」

グライバッハが今まで見たことのないような笑顔で、メルキオールはそう言った。

「ではステイシア、君の見てきた世界を我々にも見せておくれ」

「わかりました、マスター」

次の瞬間、研究室は奇妙な世界へと変貌した。

金属質の蔦が周囲を覆い、様々な色に変色する果実のようなものが成っている。

「金属の……森?」

しばしの沈黙の後、グライバッハはそれだけを呟いて、変色を続ける果実のような何かに手を伸ばす。だが先程のステイシアの身体と同様に、果実はグライバッハの手をすり抜けた。蔦に触れると、メルキオールの研究室の壁の感触が伝わってきた。

「幻覚か」

「いいや、現実だよ、グライバッハ。そうだろう? ステイシア」

「はい、ここは無限に連なったこの場所の可能世界です。私はその全てに到達することができます」

ステイシアは誇るように言った。

「もっとたくさんの世界があります」

すると周りの世界は溶け、今度は大海原が現れた。ステイシアは笑いながら二人の周りを回る。

黒い影が海面に広がり、巨大な魚のような怪物が飛び上がってきた。

その怪物にステイシアは一瞬で飲み込まれ、海中に消えていった。

「あははは」

そんな笑い声が聞こえたかと思うと、再びステイシアが空中に現れた。

今度は灼熱の世界が現れた。煮え滾るたぎるマグマに巨大な噴煙、頭上に無数の噴石が飛び交っている。生物のいない死の世界だった。

そうやって何度も何度もステイシアは世界を切り替えた。人間以外が文明を築いている世界、人間が未だに狩猟採集を続けている世界、奇怪な進化を遂げている文明世界など、次々と可能世界が現れては消えていった。

「もういい!」

グライバッハが大声を上げる。メルキオールは目配せでステイシアを止めた。

可能世界は消え失せ、何事もなかったかのように元の研究室の部屋へ戻った。

「私は全ての可能性を手に入れたぞ。グライバッハ」

「馬鹿げている。 ただの幻影じゃないか」

「見ただろう、あらゆる可能世界を。 そこから得られる情報はいかなる研究をも凌駕するぞ」

「まやかしだ。 こんなものは」

「信じられないのも仕方ない。だが、これこそが現実なのだ」

「こんなもの、狂人の夢と同じじゃないか」

「ここまで見せてもまだ理解できないのか。見損なったぞ、グライバッハ」

「君が何を信じようと自由だ。 だが友人として忠告しておく、まやかしはまやかしだぞ」

「何を言う。私は成功したのだ」

実験の一部は確かに成功していた。しかし先程見たものが本当に可能世界なのかどうかの確証は何も無い。それも厳然たる事実だ。

「これで失礼するよ。メルキオール、レッドグレイヴにはこの件は内密にしておく。君は少し冷静になった方がいい」

グライバッハは幻影の興奮を振り払うよう努めて冷静にそう告げ、去っていった。

グライバッハが去ってから、メルキオールはステイシアを呼び寄せた。

「さあ、お前の力で私に世界を見せておくれ」

ステイシアは椅子に座ったメルキオールの手を取り、跪いた。

「はい、マスター」

ステイシアは心底嬉しいという表情を浮かべると、メルキオールの脳に可能世界の画像を送り始めた。

ステイシアが帰還してから数ヶ月が経った。メルキオールは落胆していた。

様々な可能世界をステイシアの力で見て回ったが、有用な成果は何も得られなかったのだ。

可能世界には今の世界より少し時間が進んだ世界もあれば、少し過去の世界もあった。

微妙に違った無限の世界を確認できれば、世界を思うがままに操れる筈だった。

だが、メルキオールはその実験に何度も失敗していた。

最初の実験は簡単な暗号解析だった。

問題を定義し、デタラメに復号のための鍵を設定して解いてみる。当然失敗する。ステイシアの力を借りて<問題を解くことに成功した可能世界>を見せてもらう。その可能世界で用いた鍵を現実世界でも使えることが確認できれば、実験は成功だった。

しかし、何度実験を重ねても失敗が続いた。脳では確かに数列の鍵を確認した。その場でメモも取った。正しさも何度も証明できた。

それでも、その鍵では現実世界の暗号を復号することはできなかった。

どうしても乗り越えられない壁のようなものがあった。

最終的には、サイコロ一つ予想することすらできなかった。

何かが間違っていた。

確かにステイシアはヴォイドから帰ってきた。たくさんの可能世界を眼前に見せてくれることもできる。それなのに、ステイシアは現実世界には何も影響を与えることができなかった。

グライバッハの言った「こんなものは狂人の夢と変わりない」という言葉がぐるぐるとメルキオールの頭を巡った。

執念だけがメルキオールを支えていた。

「申し訳ありません、マスター」

ステイシアは頭を抱えたメルキオールの肩に触れた。思わずメルキオールはその手を払った。確かにその感触はあった。

「本当に申し訳ありません」

ステイシアは心底すまなそうに謝った。グライバッハの作った情動プログラムは完璧に動作しているようで、彼女は自分のマスターが悲しむ姿に同情していた。

そのことが、メルキオールをますます苛立たせた。

「少し一人にしてくれ」

吐き捨てるように言うと、メルキオールは自室に篭もり、新しい思索に耽った。

「実験を開始します」

ステイシアの声が研究室に響く。

研究室には全ての空間を埋め尽くす程の巨大な装置が鎮座していた。

ステイシアからの知見を元に仮説を構築し、結論が出るまでに約十年。その仮説を証明するための装置が完成するまで、更に十年が掛かっていた。

可能世界を操るためには、やはり強烈なエネルギーが必要との結論に達していた。

確かにステイシアは可能世界に到達できた。それなのに、現実世界に影響を与えることはできなかった。一種の壁があったのだ。メルキオールはその壁を越えるべく、多元世界に対して相互作用可能な『扉』を設ける装置を創りだした。

巨大な装置が大きな音を立てて駆動する。内部に設置されたケイオシウムコアとエネルギーを放出する場は常にモニターされており、ナノ秒の漏れもなく観測がなされる。

メルキオールはモニターに次々と表示されるケイオシウムコアの状態と装置の中央に空いた空間を交互に眺めていた。

一時間、二時間と時が過ぎていく。メルキオールは根気強く待った。焦りは無意味だということを、この装置を創り上げるまでに散々思い知らされていた。

休憩を挟んで三時間が過ぎた頃、初めて中央の空間で変化が発生した。

「装置中央に空間の揺らぎを確認」

ステイシアは静かに告げる。人間が観測できる程の大きな揺らぎではない。

原子レベルでの観測が可能であるステイシアだからこそ気付けた変化だった。

「大きさは?」

「発生時は原子サイズでした。少しずつではありますが揺らぎは広がっています。目視観測可能となるまで約四時間と推定されます」

「わかった。観測を続けてくれ」

ステイシアの言葉通り四時間が経過した頃、空間の揺らぎは人の目でもはっきりと観測できる光となった。

光は様々な光彩を放ちながらゆっくりと回転していた。メルキオールの目には、まるで地上から観測した渦状銀河のように映っていた。

非常に低速ではあったが、光は大きさを増していき、乳児ならば包み込めるほどの大きさにまで成長していた。

メルキオールは様々な光を遮るゴーグルを装着し、光の中を覗いた。もし光の向こうに別の世界が映ったとして、人の目に害のある物質や光源がないとは限らなかった。

ゴーグル越しに見えたものは、淡い緑の光が辺り一面を照らしている世界だった。草木はガラス質のような物質で構成され、常に強い風が吹く荒野のような世界だった。

メルキオールの眼前に異世界の光景が広がっていた。『扉』は確かに開かれたのだ。

「よし、次の段階へ進む。撮影機を向こう側へ送る」

メルキオールは注意深く『扉』から離れた。今は安定しているように見える光だが、何の切っ掛けで消えるかわからなかった。

「映像撮影機、投下します」

マニピュレーターに繋がった小型の撮影機が、光の中へと入っていく。

「映像記録は取れているか」

「はい。モニターに映します」

モニターの一つに、先程メルキオールが見た光景が映し出される。撮影機の間近を、その世界の生物がゆっくりと通り過ぎていった。

「こちら側の物質は問題なく送ることができるようだな」

暫くの間、撮影機は異世界の様子を映し出していた。しかし突然撮影機に衝撃が走り、映像が乱れる。

「何が起きている?」

「あちらの世界の生物が投影機を攻撃しているようです。撮影機をこちらに戻します」

「わかった」

程なくして撮影機がこちら側へと引き戻された。

撮影機が完全に引き戻されると、間を置かずに光が収縮を始めた。

「やはり物質の移動を頻繁に行う事はできないか」

「安定化の実験を重ねる必要があります」

光はその回転速度を増していたが、それに比例するように収縮していった。同時に増光度合いも強くなる。

「ステイシア、装置を止めろ」

「わかりました」

光は一瞬だけ強い輝きを見せ、消失した。

ステイシアは別の反応を確認していた。

「暴走したのか? 状況は?」

「中央に生体反応を確認。マスター、これは……」

光の渦が発生していたその場所に、小さな生物がいた。子犬のようにも見えるそれは、自分が置かれている状況にも構わず、のんびりと欠伸をしていた。

「あの光を通ってきたということか。撮影機があちらに渡ったように……」

アクシデントこそあったものの、実験は成功した。

開いた扉は小さなものであったが、メルキオールにとっては自身の仮説を証明するに十分なものであった。

「この生物はいかがしますか?」

「どこまで生きるか観察しよう。標本にするより良い実験になる。この生物がこちらの世界で生きることができれば、相互作用の究極の証明だ」

「わかりました。ただ、危険な状態になった時にはどうなさいますか?」

この生物が物理的に危険である可能性は大いにあった。

「ふん、気にするな。大した生物ではあるまい」

メルキオールは妙に楽観主義的なところがあった。

「ですがマスター」

「ええい、煩いぞ!」

メルキオールの語気が強まった。

その声がステイシアに届いた瞬間、彼女の中に(メルキオールの言葉に従わなければ)という意識が急に発生した。そしてその感覚は、(この生物を隔離し、メルキオールの安全を確保しつつ生育する)という思考に切り替わった。

「わかりました。飼育スペースを構築します」

こうして『扉』の研究理論は実証された。

ある日、メルキオールは次の段階に進む前準備として、定期トリートメントを行う施設へと出掛けた。

その不在の隙を突くかのように、この二十数年誰も訪れることのなかった研究所にグライバッハが尋ねてきた。

「マスターは不在です。お引き取りください」

命令は無くとも、主が不在の間は何者も通してはならないと判断したステイシアは、にべもなくグライバッハに告げる。

「わかっている。今日は君に用があってきた」

「お引き取りを」

「君に搭載されている人工知能の生みの親は私である、と知ってもかい?」

「どういう意味でしょう?」

「メルキオールは君に何も話していないようだね」

グライバッハの言葉にステイシアは驚愕の感情を覚えた。自分を作り上げた人物はメルキオールであると、教えられずともそう思っていた。

ならば、グライバッハの発言の意味するところは何か。ステイシアはそれを知りたいと考えた。

「……わかりました。ご用件をどうぞ」

しばしの沈黙の後、ステイシアは研究所の扉を開けた。

「―了―」