3398 【現】
広げられたノートに向かって、メリーは一心不乱に文字を綴っていた。
カリカリという音が部屋に響く。
メリーの部屋は何の変哲もない子供部屋だ。小さなベッドと机、最低限の生活用品を入れるためのクローゼット、そして子供向けの小説や教本が入った小さな本棚。
違うところがあるとすれば、それは机の上に堆く積まれたノートだろう。
使い込んでボロボロになった物から手付かずの新品まで、綺麗に積み上げられている。
◆
「メリー、そろそろ礼拝の時間よ」
部屋の扉を叩く音と僧侶の声が聞こえてくる。
その声にメリーは手を止め、ペンを置くと部屋の扉を開けた。
「皆が待っているわ、早く礼拝堂に行きなさい」
「はぁい」
メリーは書き掛けのノートを気にしながらも、礼拝堂へ向かった。
礼拝の最中、メリーは祭司の唱える文言を聞いてはいたが、心は別のところにあった。早くノートに続きを書かないと内容を忘れてしまう。そんなことばかりを考えていた。
礼拝が終わると、メリーは足早に自室に戻り、書き掛けのノートに向かって再び文字を綴り始めた。
どれくらいそうしていただろうか。日が暮れる頃に扉を叩く音でようやっとノートから視線を外す。
「メリー、部屋にいるの?」
メリーが部屋の扉を開けると、昼の礼拝の際に呼びに来た女性僧侶が心配そうに立っていた。
「イザベル先生? どうしたの?」
「ああよかった。姿を見かけなかったから、どこに行ったのかと思って」
「ううん、ずっと部屋にいたよ?」
「そう……。また書いていたの?」
イザベルと呼ばれた僧侶は、メリーの背後に見えるノートを見やる。
「うん!」
「今はどんなことを書いているの? 見てもいい?」
「いいよ!」
メリーはニコニコと笑いながら、イザベルに書き終えたノートを差し出した。
ノートの中には少女の拙い字で、壮大な物語が綴られていた。
「これはいつの夢?」
「えーっと、一昨日から見てる夢だよ。私がお姫様で、お兄さんが王子様なの」
メリーは少し恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうだった。
「そう、楽しそうな夢ね」
「それでね、いろんなところを冒険するの。今朝はね、海底にある大きな神殿に行ったんだよ」
今朝夢に見た情景がどんなに凄いものだったかを無邪気に語るメリーに、イザベルは困ったような笑みを浮かべながら相槌を打つしかできなかった。
メリーは半年ほど前に起きた凄惨な事件に巻き込まれてから、精神の均衡を崩している。彼女は夢に見たものをノートに書き綴ることで、辛うじて自身の心を保っていたのだった。
◆
ある日、メリーは聖堂から少し離れた場所にある閑散とした植物園にいた。
人気の無いそこは昼間にもかかわらず静まり返っており、酷く不気味であった。
少し前までは、植物園の所有者であるオハラという老人と、ヴィルヘルムと名乗る若い男が管理をしていた。しかし今は放置されており、メリーが一人で雑草同然となった草木を手入れしている。
「またここにいたのね。 ここに来てはいけないと祭司様に言いつけられているでしょう?」
植物園の片隅で土の手入れをするメリーを見つけたイザベルが声を掛けた。
「ごめんなさい……。 でも、お兄さんにここを頼むって言われてるし……」
メリーの言葉にイザベルは暗い顔をした。
◆
彼女の言う『お兄さん』とは、オハラと共に植物園を管理していたヴィルヘルムのことだ。
この青年は数年前に大怪我を負って倒れていたところをメリーに発見され、聖堂によって保護された。そして怪我が治った後も、行く当てが無いということから、植物園の管理を手伝う住み込みの従業員として雇った経緯があった。
自分のことはあまり話さなかったが、心優しい人物であり、仕事も真面目にこなす青年であった。
だが、彼はメリーが精神を病む原因となった事件の際、行方不明となった。
事件の発見者であるオハラの言葉によれば、植物園の管理小屋におびただしい量の血が撒き散らされており、その中に鋭利な刃物で無数に貫かれた痕跡のある衣服が残されていた。そして、守られているかのように、その衣服に包まれた無傷のメリーが倒れていたのだという。
残されていた衣服は間違いなくヴィルヘルムがその日に着ていた物だったが、持ち主である彼の姿は忽然と消えていた。そして現在に至るまで彼は発見されておらず、生死も不明の状態であった。
不可思議で凄惨な事件だったが、容疑者はすぐに捕まった。だが、容疑者は犯行を否定し続けており、事件の真相究明は難航していた。
植物園は事件とオハラの高齢を理由に閉園され、今では寄りつく人もいない。
彼と共に事件に巻き込まれたメリーは、衝撃的な場面を目撃してしまったせいか、事件の前後の記憶を失っていた。
そして精神的に不安定となった彼女は、ヴィルヘルムはどこか遠くへ旅に出ており、留守中の植物の面倒を頼まれた、という夢想を自分の中に作り上げていた。
そのため、度々聖堂を抜け出しては、この寂れた植物園に勝手に入り込んでしまうのだった。
◆
「そうね。 でも、もうお終いにしましょう」
「どうして?」
「祭司様の言いつけを破ってしまうのは、駄目なことでしょう?」
「でも、お兄さんがここを頼むって……」
メリーはイザベルの言葉に納得できず、植物園を訪れることを諦めようとしなかった。
「どうしてもここに来たいのなら、ちゃんと祭司様に相談なさい」
「祭司様がいいって仰れば、来てもいいの?」
「ええ、もちろん。 だから、ちゃんと祭司様に相談するのよ」
「うん!」
イザベルは嬉しそうに頷くメリーを見て、ひっそりと重い溜め息を吐いた。
◆
以前にもメリーに現実を教えた事はあった。しかしメリーはひどく狼狽し、しまいには聖堂を飛び出してしまった。その時は運よく聖ダリウス大聖堂の近くで保護されて事無きを得たが、次に同じような事があっても無事に保護されるとは限らない。間違ってスラムにでも入り込んでしまったら、今のメリーでは生きて帰ってくることは不可能だろう。
今のメリーは夢の内容をノートに綴りながら青年を待つことで、何とか精神の均衡を保っている。そこの部分に目を瞑れば、メリーは少しだけ夢見がちな普通の少女なのだ。
ヴィルヘルムの死も、夢を書き綴ることも、年単位の時が流れれば、メリーは少しずつ現実を受け入れてくれるだろう。そう考えた祭司とイザベルを含めた聖堂の僧侶達は、メリーに真実を隠し続けることにしたのだった。
◆
「お兄さん、早く帰ってくるといいなぁ」
聖堂への帰り道、メリーは何も疑問に思うことなく、そんな言葉を口にした。
ヴィルヘルムのことを話すとき、メリーは一際無邪気に振る舞う。
「……そうね。 彼が無事に旅を続けられるように、お祈りをしましょうね」
「そうする!」
イザベルの言葉に、メリーは無邪気に笑うのだった。
◆
夕闇の中、蠢く死者の群れと異形達が、首都ルーベスで交戦していた。
異形達は圧倒的な腕力と念力とも言えるような不思議な力で死者の群れを薙ぎ払う。
対する死者の群れは、尋常ならざる頑強さで異形の力に耐え切っていた。
メリーはその様子を大聖堂の塔の上から見下ろしている。
暫くの間眺めていたが、羽根ペンと紙を虚空から呼び寄せると、慣れた手付きでその様子を紙へと綴った。
一通り戦場の様子を記録すると、羽根ペンと紙を虚空へと消す。
「探さなければ……」
メリーは小さく呟くと、塔から飛び降りた。
そのまま重力を無視したように宙を漂うと、戦場の真っ只中に降り立った。
泥と埃と血に汚れた戦場で、奇麗な桃色の衣装を身に纏うメリーの姿は奇矯だ。
だが、街を闊歩する死者の群れも異形達も、メリーに気付くことはなかった。
「―了―」