3274 【決意の日】
聖歌隊の練習が終わった後、私はすぐに自室で日付を確認しました。
その日はカレンベルク先生がいなくなってしまわれた、祭事の日のちょうど一週間前でした。
私は驚きを隠せませんでした。レミが心配そうな顔でこちらを見ていましたが、そんなことを気に留めることすらできません。
私は自室を飛び出して、先生がおられそうな場所を探します。
先生はすぐに見つかりました。談話室でご休憩されていらっしゃいました。私は先生のところへ駆け出します。
「シャーロット、どうしたんだい?」
いつもと同じように優しい微笑みを浮かべる先生の目を、私は真っ直ぐに見つめます。
「先生、祭事の日に旅に出られるって、本当なのですか?」
唐突な私の質問に、先生は戸惑ったような表情をなさいました。
「なんだい? それは。 誰かがそんなことを言っていたのかい?」
先生は困った顔で私を見ておられます。
「あ、あの、その……。ご、ごめんなさい……」
「カレンベルク、ちょっといいかね?」
「司祭様、どうかなさいましたか?」
「火急の用だ。シャーロット、すまんが外しておくれ」
司祭様は深刻そうに先生を見ていらっしゃいます。私は一礼して談話室を去りました。
お二人のやり取りが何であったかはわかりませんでした。ですがそれ以降、先生のご様子に変化があったことは確かだったのです。
◆
一週間後、先生は私の前から姿をお隠しになられました。
私は再びあの歌を歌いました。すると、また祭事の一週間前に戻りました。
◆
原理はわかりませんし、こんな恐ろしい力のある歌に恐怖も覚えました。
ですが、そんな恐怖を感じたのも一瞬のこと。あの歌を歌うことで過去に戻れるならそれでいい、とすぐに思いました。
カレンベルク先生と二度と会えなくなることの方が、私にとっては余程恐怖なのですから。
◆
私は何度となく過去に戻ることを繰り返しました。
私が繰り返す一週間は、同じようで同じでない一週間でした。
ですがどのような一週間でも、先生は必ず祭事の前日にひっそりと出立されてしまいます。
私は一週間という時間を最大限に使って、何度も先生と会話をしようと試みました。
けれども、まるでそれが運命であるかのように、何かの力が先生との会話を遮ってしまうのです。
◆
ある時、私は風邪を引いて熱を出した状態の過去に戻りました。
幾度かは体調の悪い過去に戻ることもありましたが、こんな風に動けない程悪いのは初めてでした。
体調を崩している暇など無いというのに。
先生は病に臥せる私を気に掛け、レミがいない時を見計らって尋ねてきてくださいました。
「大丈夫かい? シャーロット」
先生は心配そうに私を見つめていらっしゃいます。
「あ……。せん、せ……」
「無理して喋ったら駄目だよ。また来るから」
先生とお話しできるまたとない機会なのに、私は言葉を紡ぐことができません。喉が腫れていて、声を出そうとすると酷い痛みが襲ってきます。私は悔しい思いに囚われました。
◆
やっと体調が回復して声を出せるようになった時には、既に祭事の前日となっていました。
つまり、カレンベルク先生が旅立たれてしまう日です。
急がなければ先生を見失ってしまう。雪の降る中、私は病み上がりの身体を押して先生を追い掛けました。
先生のご出立を止められないのはわかっています。それでも、もしかしたら私の説得に応じてくれるかもしれない。私の言葉が届くかもしれない。
私だけに向けてくださる微笑に一縷の望みを見出して、私は先生を追い掛けました。
◆
先生はいつかの時と同じように、古びた大聖堂の中心に立っておられます。
「カレンベルク先生!」
先生がバイオリンで楽曲を奏でようとしたまさにその時、私は叫ぶように先生の名を呼びました。
「シャーロット?」
先生は驚愕の表情で私を見ておられました。
「先生、あの、私……」
先生に思いを告げようとするも、上手く口が動きません。
「帰りなさい」
まごつく私に、先生は今までにない強い口調でそう仰いました。
「先生……?」
「教会に帰りなさい、と言ったんだ。シャーロット」
「先生、話を聞いてください。私は――」
「帰るんだ!」
先生が声を荒げる姿を、私は初めて見ました。
そして先生の鬼気迫る表情に、私は吃驚して固まることしかできませんでした。
「……ごめん、シャーロット。でも、お願いだから言うことを聞いておくれ」
はっとなった先生がいつものお優しい様子に戻られると、私の目を真っ直ぐに見つめてそう仰いました。
「いや……、嫌です。先生」
私は先生のコートを掴み、駄々っ子のように先生の言葉を拒否します。
ここで先生の言いつけをそのまま聞けば、また振り出しに戻ってしまうのです。
「君はいい子だ。だから僕の言うことを聞いてくれるね?」
先生は悲しい顔でコートを掴んでいる私の手を引き剥がすと、そっと私から距離を置かれました。
「先生……」
「探していた人が見つかったんだ」
先生は一方的に仰います。言葉の一つ一つに先生の必死な思いが込められており、私が何か口を挟むことなどできません。
「その人は僕の大切な人なんだ。だから、僕は行かなければ」
その言葉に、私は目の前が真っ暗になりました。先生の心の中にはずっと前から思い人がいらっしゃったのです。
「大切な……」
先生の言葉は決意に満ち溢れておられました。誰にも、司祭様でも止めることはできないでしょう。
私なんかが先生の行く道を阻むことなど、できる筈がなかったのです。
「僕はもう行かなくては。シャーロット、君も帰りなさい」
それだけを仰ると、先生はバイオリンケースを持って足早に立ち去られました。
私を教会に送り届ける時間さえ惜しかったのでしょう。私は古い聖堂に一人取り残されてしまいました。
「せん……せい……」
私は流れる涙に気付かないふりをして歌います。もう一度先生に会うために。
ずっとずっと、カレンベルク先生のことを思いながら歌い続けました。
◆
薄れた意識がはっきりしてくると、聖歌隊の練習の最中に戻っていました。
先生はいつもと同じように、私達に熱心な指導をしておられます。
そっと先生の様子を目で追い掛けます。先生は休憩中やふとした拍子に、とても悲しそうな表情でどこか遠くを見ておられました。
私と目が合うと微笑みかけてくださいましたが、その瞳の中に私は映っていませんでした。
◆
私は幾度となく最後の一週間を繰り返すうちに、一つの決意をしました。
どうやっても未来を変えられないのであれば、せめて私の思いだけでも告げようと思ったのです。
それで何かが変わっても、変わらなくてもいいのです。
カレンベルク先生が私の思いを受け入れることなど万に一つもないでしょう。それでも、先生の心のどこかに私という存在を刻み込むことができるのなら、それだけで構わないと。
◆
この思いを告げることができるその日まで、私は最後の一週間を繰り返し続けることを決意したのです。
「―了―」