—- 【変異】
石造りの街並みは無残に崩壊していた。
この街に住む人間は誰も、突如広場に現れた黒く昏い『何か』を理解することができなかった。
その『何か』は荒れ狂う嵐のように街を破壊し、浸食するように広がっていった。
◆
ヴィルヘルムは家族と共に、その『何か』から街の住民を逃がしていた。
彼の家は守人の家系であり、土地に災いが起きた時は率先して人々の救助に当たる役目があった。
『何か』の浸食は留まるところを知らない。
街の人々を救助し終えて自分達が脱出しようとした時には、もう遅かった。
ヴィルヘルムの家族に黒く昏い『何か』が迫る。もう助からないのだと覚悟した。身体が動かない。迫り来る死の匂いを感じ取りながら、ヴィルヘルムは目を閉じた。
その時だった。父親がヴィルヘルムの手を取った。
「お前に、希望を……」
「父さん?」
言葉の意味はわからない。だが、大切なものが自分に託されたことだけはわかった。
石のようなものを握った感触があった。その瞬間、ヴィルヘルムの身体を灼熱が襲った。全ての骨肉を焼き尽くさんとするその熱に、ヴィルヘルムは意識を手放した。
◆
ヴィルヘルムは一人、荒野を歩いていた。
今がいつで、どうしてこんな場所にいるのか。そもそもどうやってこの場所まで来たのか、意識がはっきりするまでどうやって生活していたのか。何故自分だけが助かったのか。
ヴィルヘルムには何もわからない。
生き残ってしまったという罪悪感だけが、ヴィルヘルムの胸中にあった。そんな彼を嘲笑うかのように、災厄が次々と襲い掛かってきた。
ある時は山林の火災に巻き込まれた。魔物が山に火を放ったらしい。
野生の動物と一緒に逃げ惑う内に、火に飲み込まれた。焼かれていく感触は確かにあったし、全てが熱に飲まれていくのを感じていた。
気が付くと、水辺で倒れていたらしいところを、近辺で暮らしていた猟師に助けられた。
またある時は、魔物に追われていた運び屋に、魔物を欺くための囮にされた。
「悪いな、ボウズ。俺達を待ってる仲間がいるんだ」
必死の抵抗も虚しく魔物に蹂躙された。筈だったが、またしても気が付くと無傷で荒野に取り残されていた。
「何で、俺は……」
そんな目に遭ってどうして生きているのか。何もかもがわからなかった。
◆
当てもなく彷徨った末に辿り着いたのは、どこかの国のスラム街だった。自分の身体が普通ではないと自覚したのは、この頃だった。
すれ違った時にちょっと肩が当たってしまった。ただそれだけのことだったのに、その相手に目をつけられた。ヴィルヘルムがぼんやりとした顔をしていたのも、彼らの目を引いたのかもしれない。
「あぁ? 何だてめえ」
「すみま……せん……」
謝るヴィルヘルムを彼らは許さなかった。日頃の苛立ちを解消するかのように、ヴィルヘルムをひたすら殴り、蹴った。
抵抗する力など無かった。ただただ、彼らの気が治まるのを待つしかなかった。
そうする内に、強烈な一撃が後頭部を襲う。ヴィルヘルムは呻き声を一つ上げて、完全に動かなくなった。
「アニキ、コイツ動かなくなっちまいましたよ」
「ほっとけ。死体が一つ増えたところで、誰も気にしやしねえよ」
そんな声が遠くから聞こえたような気がしたが、意識は遠のいていくだけだった。
◆
目を覚ました時にはすでに朝だった。路地の片隅に打ち捨てられていたヴィルヘルムは、起き上がることもせずにぼんやりと地面を眺めていた。
そこに、ヴィルヘルムを痛めつけた男達が通り掛かった。
「何だ、お前……。昨日あれだけ痛めつけたのに……」
「……アニキ、こいつおかしいぜ!」
男達はヴィルヘルムが無傷であることに気が付いた。自分達が負わせた怪我が綺麗に治っている。その事実に青ざめた。
「お、おい、逃げるぞ。こいつは化け物だ!」
自分としては意識が闇に包まれ、次に意識を取り戻した時には傷が癒えていた。それしかわからない。自分がどれ程の怪我をしたか知る人物もいないため、何が起きたか知りようがなかったのだ。
傷が癒える速さが常人とは違うのだ。どのようなことになっても死ぬことはないのだ。そう認識したのはこの時だった。
◆
何があっても死なない。そのことを自覚したヴィルヘルムは、スラムから再び荒野に飛び出した。
人の目がある場所は怖かった。化け物と言われることを恐れた。
荒野を彷徨っている内に、ヴィルヘルムは魔物に襲われた。臓腑も脳髄も肉も、全て魔物にくれてやるつもりだった。
どうせ、また気が付いたら無傷なのだろうという絶望がちらついたが、すぐに激痛でそんな思考も奪われた。
◆
「おい、誰か倒れてるぞ!」
「ひどい怪我だ! とにかく聖堂へ運べ!」
人の声が聞こえて意識が微かに浮上した。やはり助かってしまった、そんな絶望感だけがあった。
◆
次に目が覚めると、ヴィルヘルムは薄暗い部屋で拘束着を着せられて、動けない状態で寝かされていた。
「目覚めましたか」
無表情の女が目の前に立っていた。彼女はヴィルヘルムを冷たく見下ろしている。
「ここは……」
「それを知る必要はありません。あなたは今から、我らの首領を救うための礎となるのですから」
「何を……」
「光栄に思いなさい。神を救うための贄となることを」
◆
何もわからぬヴィルヘルムを待ち受けていたのは、今までの災厄さえ生温いと思わせる程のものだった。
白衣の男達はヴィルヘルムを徹底的に害した。肉も、臓腑も、脳細胞も、ありとあらゆる箇所が何度も切り取られ、何度も擂り潰された。あらゆる物を溶かす液体に首から下を全身浸けられた。全てが凍り付くような場所に放置された。魔物と一緒に閉じ込められた檻の中で、ただ食われていく様を観察されたこともあった。
それでも再生し、生き続けるヴィルヘルムに、白衣の男達は目の色を変えて研究していた。死なない細胞、死なない化け物。彼らはそう口にしながら、ヴィルヘルムの身体が持つ神秘に取り憑かれていった。
ヴィルヘルムは痛みで気絶し、痛みで目を覚ますことが恒常化しつつあった。酷い時には臓腑や脳髄を削られている最中に意識を取り戻すことさえあった。
精神も折れる寸前であった。むしろその程度で留まっていること自体が奇跡だった。
後にこれは間違いだと知るのだが、この時のヴィルヘルムにそれを知るような余裕も、知らせるような人物もいなかった。
しかし、身体は限界を迎えつつあった。傷の再生速度が落ちていった。傷付けられた身体は、数日が経過しても回復の兆しを見せなくなった。
「再生能力が落ちているな」
「さすがに限度があるか。どうする?」
「ユーリカ様に指示を仰ごう。ギュスターヴ様の再生はすでに開始されている」
朦朧とする意識の中、そのような会話が聞こえてきた。
◆
それから暫くの後、ヴィルヘルムは何処とも知れない場所に廃棄された。
正確には、気が付いたら塵捨て場のような場所に放逐されていたと言うべきか。
流れる血と臓腑の欠片を、ヴィルヘルムはぼんやりと見つめていた。
彼らによって傷付けられた身体は再生する兆しを見せない。感覚は完全に麻痺し、痛みがあるのかないのか、何処が傷付いているのか。その程度のこともわからなかった。
何故目を覚ましたのだろう。あのまま自覚なく死んでいればよかったのに。
そんなことを思いながら、明るくなりつつある空を見上げていた。
何故このような酷い目に遭い続けながらも、苦痛と共に生きなければならないのか。そのことをヴィルヘルムは考える。
あの時、黒く昏い『何か』から一人だけ助かってしまったことに対する罰なのかもしれない。
守人の家に生まれながら、何一つ守れなかったことに対する罪なのかもしれない。
でも、それももう終わりだ。再生することのない身体を見遣って、漠然とそう思った。
やっと家族のところへ行ける。やっと苦しみから解放される。そんなことを思いながら目を閉じた。
◆
「――さん!」
誰かが呼ぶ声が聞こえた。
重く重くのし掛かる瞼を無理矢理こじ開けると、一人の少女がヴィルヘルムを心配そうに見つめていた。
先程まで自分の視界を満たしていた明るい空は無い。目の前に広がるのは草木の緑。
どうやら過去の夢を見ていたようだと、ぼんやりとする頭でヴィルヘルムは思った。
「お兄さん、大丈夫!?」
「き、み……は……」
「待ってて、いま誰か呼んで来るから!」
少女の足音が遠ざかっていった。
「―了―」