3390 【狐】
《渦》による被害が最も酷かったインペローダ領サラン州。かつてそこにあった自然を復活させるための調査。
リンナエウスはその責任者として、地上改善を主要研究とする複数のエンジニアと共に地上へ出向していた。
オルグレンの要請を受けたリンナエウスは、レプトン研究所に副所長として入所し、地上の環境改善に関する研究を続けている。環境改善の第一人者であるリンナエウスが出向の責任者となるのは順当であった。
ライブラリアンが発掘したかつての自然分布図やインペローダの古い風景写真などと照らし合わせ、どういった改善が適しているかを調査する。
それがリンナエウスの仕事である。
◆
《渦》の影響がなくなった地上の調査は、驚くほどスムーズに進んだ。
かつて《渦》がこの世界に存在した頃、何人ものエンジニアが地上調査に送り出されたが、得られた成果はごく僅かであった。
それが今は、調査をすればするだけ成果が出てくる。
《渦》が人類をどれほど脅かしていたのか、リンナエウスはその事実に改めて震えた。
◆
「おや?」
リンナエウスが調査クリッパーでジ・アイの跡地周辺に赴いたときのことだ。
そこには、怪我を負った一匹の野生動物が横たわっていた。
このような不毛の大地に動物がいるということ自体、非常に珍しい。
別の場所から餌を探して迷い込んだのか、それとも群れから追い出されて彷徨っているのか。いずれの理由も区別は付きかねた。
だが、野生動物がこの地にいるという事実自体が、貴重なサンプルである。
「あの狐を保護しようかぁ」
「生態系調査のサンプルですね」
「うん。それに怪我を治して野生に帰せば、この個体がここでの新たな生態系発展のきっかけになる可能性もあるからねぇ」
「わかりました。保護用の檻を用意します」
こうして、一匹の狐がリンナエウスの研究棟へと保護された。
◆
リンナエウスが保護した狐は、非常に大人しい個体であった。
怪我を負っているということもあるが、基本的に部屋の中でじっとして養生していた。実際に保護をしたリンナエウス以外の者が部屋に近付くこともなかったためか、噛み付いたり暴れたりといった危険なこともなかった。
地上管理局にも、この貴重な野生動物の保護に関する中間報告を済ませておいた。
◆
野生動物の保護報告から数日後のことだった。
調査用クリッパーから送られてくるデータを閲覧していると、部下の技師から通信が入る。
「地上管理局から、保護した野生生物の処分に関する通達が来ています」
「不毛の地であるサラン州に生物がいることがどれほど貴重なのか、地上管理局はわかってないのかなぁ」
「リンナエウス上級技官の仰るとおりではありますが……」
「いいよ、地上管理局には私から説明するから、連絡を待てって言っておいて」
「わかりました」
通信が切れると、リンナエウスは地上管理局にどう言って納得してもらうか考えつつ、データ閲覧を再開した。
◆
「地上環境の改善の目安となる野生動物を保護しただけであり、処分通達は受け入れかねます」
「どんな毒を保持しているかもわからないものを保護するなど――」
「寄生虫や病原体の検査は完了しています。特に人体に影響はないと報告済みでしょう」
「そもそも、野蛮な地上の生物に干渉するなど、規約違反だ」
地上管理局員は強めの口調で規約を持ち出した。この言葉を言われると大概のエンジニアが萎縮することを知った上での言葉だ。
「技術提供エンジニアが地上に出向するのとは訳が違います。我々の調査は《渦》が原因で荒廃した地上環境を改善するための調査です」
「だが、調査項目に野生動物の保護といったものは含まれていない。研究棟に持ち込んだ地上のものは、全て処分すべきだ」
「地上で発見したものは全てが貴重なサンプルです。ましてや生物をこちらの都合で処分するなど。摂理としてあってはならない」
地上管理局員は無言になった。その隙を逃さず、リンナエウスは畳み掛けるように言葉を続ける。
「地上の環境改善は統制局からの勅命です。地上管理局の判断だけで処分不処分が決められるとお思いですか?」
長い沈黙があった。
「……わかった。通達は撤回しよう。だが、くれぐれもその動物の毒をパンデモニウムに持ち込まないように」
地上管理局員は苦々しい顔でそう言うと、通信を切った。
◆
リンナエウスは通信が切れたことを確認すると、大きく溜息を吐いた。
統制局は地上平定や地上環境の改善を謳っているものの、各局はエンジニアの専門的な意見や現場の報告を無碍に扱うことが多々あった。
最高指導者レッドグレイヴが復活してからというもの、こういった強硬姿勢をとる局員は多い。交友のあるエンジニアや中央統括センターに勤める親族からも、各局の高圧的な行動を何度も漏れ聞いていた。
レッドグレイヴは薄暮の時代において、類稀なる政治手腕をもって世界を改善し、発展させてきた人物であるのは確かなのだろう。だが、今のレッドグレイヴは、高圧的でエンジニア達の研究を蔑ろにするような各局を咎める動きを見せない。
加えて、見せしめのように処刑された遠戚の存在もあって、リンナエウスは彼女の統治にかなり懐疑的な視線を送っていた。
とはいえ、そんな発言を口にすれば自分がどのような処罰を受けるかは明白なため、この思いを誰かに漏らすことはなかったが。
◆
インペローダでの調査は、例の狐を保護したこと以外は大きな問題が起こることもなく、つつがなく終了した。
明朝には予定通りパンデモニウムから迎えの飛行艇がやって来る。
狐に関してはこのまま野生に帰すつもりであった。
最初に保護した時点で処分が言い渡されるような状況では、この狐を生きたサンプルとしてパンデモニウムに持ち帰ることは不可能であった。
◆
その日の夕方、リンナエウスは狐のいる部屋を訪れた。傷はすっかり癒え、野生に帰るリハビリの結果も申し分ない。
「私がパンデモニウムに帰る前に怪我が治ってよかったよぉ」
狐は、話し掛けるリンナエウスをじっと見つめていた。
「さて、明日には君を解放できるよ。今まで窮屈な思いをさせてごめんねぇ」
それだけを言うと、リンナエウスは狐のいる部屋をあとにした。
◆
翌朝に備えて眠っていたリンナエウスは、腹に鈍い衝撃を受けて目を覚ました。
誰かが腹の上に馬乗りになっていることはわかったものの、暗くて自分の状況を正確に把握できないままでいた。
口は布か何かで塞がれて、声を上げようとすることはできない。
「暴れるな。今からいくつか質問する。素直に答えれば殺さない」
女の声が上から降って来る。
「イエスなら首を縦に、ノーなら横に振れ。わかったか」
声は小さいが、鋭くリンナエウスの耳に届いた。わかったの意思表示をするために首を縦に振る。
「お前はハワード・リンネという男の親類で間違いはないな?」
ハワードという名称に、リンナエウスは眉を顰めた。
この女は何故、二十年ほど前に処刑された遠戚の名を知っているのか。
「答えろ! ハワード・リンネは親類か?」
口に宛がわれた布に力が込められる。これ以上力を込められると窒息の可能性もあった。
慌ててリンナエウスは首を縦に振る。
「ハワードが処刑されたあと、遺品の美術品を受け取ったな?」
彼女が言う遺品とは、ハワードの家族から渡されたもののことだろう。
ハワードは、一族がパンデモニウムが浮上する以前から所有していた美術品を管理していた。これらの美術品は協定監視局による検閲を経て、最終的に一族の直系であるリンナエウスに譲渡された。
古くから一族に伝わる価値のある美術品ということなので、譲渡されてからは家で大切に保管している。
だが、この女はどうしてそのようなことまで知っているのか。
再度首を縦に振り、女の次の言葉を待った。
「それを私に寄越せ。あれにはハワードの研究の全てが隠されている」
今度こそリンナエウスは驚くしかなかった。
ハワードの研究。即ち、当時の最先端を行っていたケイオシウム研究。
その研究の全てが、検閲され問題ないとされた美術品に隠されているなんて、誰が想像できるだろうか。
「―了―」