53ナディーン2

—- 【接触】

古の時代、この世界に偉大な魔法使いがおり、その者は超大な力を市井の人々のために振るっていた。

しかしある時、心無き者が魔法使いを害してしまった。復讐の念に取り憑かれた魔法使いは、自らを巨大な蛆の姿に変えた。

復讐を果たした魔法使いは、尚も我を忘れたままその姿で生き続けている。

そして、魔法使いはいつしか『妖蛆』と呼ばれる存在となった。

それは大母、大叔母に伝えられる伝承だが、ナディーンはある事情からこれを幾度となく聞かされていた。

宝珠の森に生まれた者は、宝珠を妖蛆や外敵から守る戦士となるか、あるいは森の長である大母と共に宝珠を奉る者となるか、いずれかの選択をしなければならなかった。

しかしながら、宝珠を奉る者になるには特別な才が必要であるため、殆どの者は戦士となる。

ナディーンの両親も、この例に漏れず森を守る戦士だった。

特に父親は、並び立つ者は暫く現れないだろうと言われた強者であった。

「行ってくる」

勇ましい父の手が、幼いナディーンの頭を撫でた。

「すぐに帰ってくるわ。いい子にして待っててね」

凛とした母がナディーンを抱き締めた。

「うん。いってらっしゃい」

それが、父母と交わした最後の言葉だった。

両親は森を守るために死んだのだ、と言われた。

宝珠の封印から逃れた妖蛆の一部が森を襲った時、妖蛆を森から引き離すために、宝珠と同じ気配を身に纏い、囮になったとのことだった。

大母はナディーンにかの伝承を明かし、両親は伝説の災厄に立ち向かった素晴らしい戦士であったと説いた。

森の戦士や大叔母達も、彼らを勇気ある英雄と称えた。

――だが、妖蛆がどれ程危険で、どれ程森の民にとって脅威かを説かれても。

――その妖蛆に立ち向かった両親が、とても素晴らしい英雄だったと称えられても。

――両親との平穏な暮らしを奪った妖蛆を。

――自分を置いて森を守ることを選択し、二度とナディーンの元に帰ってこなかった両親を。

「ゆるさない」

と、ナディーンは強く憎んだのだった。

それからのナディーンは、ひたすらに強さを追い求める戦士となった。

なり振り構わないナディーンの態度は、他人には両親の仇討ちに燃える復讐者と映った。

しかしナディーンにとって、妖蛆の討伐は仇討ちなどではなかった。両親が果たせなかったことを成し遂げることで、両親へ復讐しようと考えていたのだ。

そこまでして強さを追い求めたナディーンだったが、『黒い夜』にやって来た『黒いゴンドラ乗り』達に、その矢は一本も届かなかった。

彼らは圧倒的な力で森の戦士達を倒し、宝珠を奪っていった。

『黒いゴンドラ乗り』達は、未知の武力をもって瞬く間に森の戦士達を薙ぎ払った。

「……凄い」

怪我を負ったものの運よく逃れ、同時に圧倒的な彼らの力を目撃したナディーン。

だが、ナディーンの心に恐怖は無かった。

唯々、その力に魅せられた。この者達と同じ力があれば妖蛆を倒せる。その可能性に心を躍らせた。

しかし、『黒いゴンドラ乗り』達が再び現れることはなかった。

宝珠を捜しに旅立ったアインが戻るのを待たず、崩壊の時が来てしまったのだ。

生き残りを賭け、故郷の森から離れたナディーン達だったが、宝珠無き世界では妖蛆を止めることはできない。

大きな地響きが、かつては湖畔だった場所を揺るがした。徐々に大きくなる揺れに、誰も立っていることすらできなくなった。

泣く者がいた。笑う者がいた。どうにもならない状況に追い込まれ、皆錯乱の最中にあった。

ナディーンはその様子をじっと見ていた。もう何もできないのだ。

すぐ近くに、事の成り行きを見守るしかできないスプラートがいた。彼女と同様に、ナディーンもじっとその場で最後の時を待っていた。

視界を大きな暗闇が覆い始めた。足下が崩れ去り、真っ黒な奈落に何もかもが落ちていった。

赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫……

一つずつ、あるいは複数の色がゆっくりと変化し続けるその空間は、ナディーンを酔わせる。

どちらが上でどちらが下かもわからない空間に、どうすることもできなかった。

こんな時、『黒いゴンドラ乗り』達の武力があれば、とナディーンは空想した。

一体どれ程そうしていただろうか。再び視界が真っ黒に染まる。

次にナディーンの視界に飛び込んできたのは、故郷の森だった。

妖蛆に飲み込まれた筈の森は仄かな星の光に照らされ、平和そのものに見えた。

森の奥で何かが淡く輝いた。歩いてみると、そこに近付くことができた。

光の中に人影が見えた。少女のようにも見える。ナディーンはその姿に見覚えがあった。

「アイン?」

ナディーンは彼女の名前を呟いた。大母によって選ばれ、宝珠を取り戻す使命を背負った少女だった。

だが、様々な雑音を退けて、「お役目を絶対に果たす」と確言した気丈な少女の姿はそこには無かった。

アインは嗚咽していた。それは歓喜の涙ではなかった。ナディーンも身に染みる程に知っている、哀しみの涙であった。

彼女は失敗したのか?

その考えは即座に否定された。アインの手には淡く光る何かがある。それこそが森を、世界を救う宝珠であると、一目見た瞬間に理解した。

「彼を――の?」

少女のような囁き声が切れ切れに聞こえた。アインの哀しみを解決する方法がそこにあると言わんばかりだ。

「ええ、もちろん!」

アインは叫んだ。

「じゃあ、――わ」

すると宝珠の光が増し、アインと森、そしてナディーンを包んだ。

アインの視線の先にあった宝珠には、『黒いゴンドラ乗り』の一員の姿がはっきりと映っていた。

ナディーンはたくさんの色彩が変化し続ける空間に戻っていた。

「あれは……」

一体なんだったのか。

アインは何を宝珠に望んだのか? そもそも、宝珠にそのような力があったのか?

大母も大叔母達も闇に飲まれた今、その疑問に答えられる者はいない。

「うふふふふふ。知りたい?」

突然、先刻アインと会話をしていた女の声が聞こえてきた。その声はアインに語り掛けていたような荘厳さは無く、物語を楽しむ、只の少女のような声色だった。

この声を、ナディーンは昔から知っているような気がした。

「あれはアインが選択したこと」

「あはははは! そう! 正解! アタシは背中を押しただけ」

故郷が無くなっても仕方がないと思うまでに、アインは何かを欲したのだ。

それだけは理解していた。

「だから、貴女にも選択権はあると思うの」

「アインとは違うことを望む可能性があってもか?」

「あの子は選択したじゃない。貴女もそうすればいい。単純な話よ」

少女は楽しそうに笑った。彼女にとって、世界がどうなるかということは些末なことなのだろう。

初めて出会った筈の少女だったが、ナディーンはこの少女のことを何故か理解できていた。

「で、どうするの?」

少女が選択を迫る。

今も昔も、両親が帰ってこなかったあの日から、ナディーンの願いは唯一つだ。

「どんな手を使っても、例えそれで世界が滅びようとも、妖蛆を倒す。そのための力が欲しい」

「貴女の望みはいつもそれね」

「そうさ。私はずっとこれだけを願ってきた」

改めてナディーンは願う。妖蛆に対抗できる力がある世界へ赴き、力と知識を手に入れる。

その結果、『黒いゴンドラ乗り』の世界や故郷の森を滅ぼすことになっても構わない。

「じゃあ、行きましょうか。貴女が求める混沌へ」

少女の高笑いと共に光の奔流がナディーンを襲い、少しずつ風景を形作っていく。

無機質だが清潔な金属質の建物。そこで精力的に働く研究者の姿が、ナディーンの目に映った。

「―了―」