44クーン3

—- 【なくしもの】

――ある者は言った。失うことで初めて、得られる幸せがあると。

――ある者は反論する。失ってよいものなど、一つとして存在しないと。

――どちらも真実であり、どちらも誤りである。

――何故なら、どれが最善かなど、その者にしかわからないのだから。

私は『なくしもの』を探している。

大事な大事なものだったけれど、いつの間にかなくなっていた。

いつ落としたのか、何処でなくしたのか、何も覚えていないけれど。

私にとっては、とてもとても大切なものだった。

休日によく訪れていた喫茶店を訪ねた。

「落としもの? 見掛けてないねえ」

「そうですか。ご迷惑をお掛けしました」

喫茶店を出て、私は盛大に溜息を吐いた。

これでもう十件目。お気に入りのレストランや、時々立ち寄る本屋、いつも通りかかる公園。

他にもいっぱい探したけれど、なくしものは見つからない。

気が付けば、陽が暮れようとしている。今日はもう諦めよう。

明日は何処を探そうか。前に行った展望台へ足を延ばしてみようか。

そんなことを考えながら歩いていたら、視線の先に『失せ物探します』の看板が見えた。

胡散臭いと思ったものの、あそこまで大書されていると、そういうものを探すのが得意なのかと思ってしまう。

「こういうのって、お金をいっぱい取られるんだろうなあ……」

いくら探してもずっと見つからないような『なくしもの』だ。専門家に頼んだら、一体どれだけ掛かるのか……。

「何かお困りか、お探しものですかな?」

看板を見て気落ちしていると、中から店主らしき人物が現れた。

長い髪に紫色の目をした気だるげな美形。とても探しものが得意そうには見えない風体の男の人だ。

「あっ、いえ。あの、その……」

「一度お話を伺いましょう。その上で、私めで探せそうなものかどうかを判断して差し上げますよ」

「あの、でも、お金……」

「心配はご無用。相談だけならば無料です」

無料。その言葉に釣られてしまった私は、この店主に促されて店内へと入った。

店主に名刺を渡された。この方のお名前はクーンさんというようだ。

隅々まで掃除が行き届いた応接室に通される。

促されるように革張りのソファに座ると、すぐに良い香りのする紅茶が出てきた。

「では、お話を伺いましょう」

クーンさんに促されるまま、私は『なくしもの』を探していることを話す。

「その『なくしもの』は、どのような形をしているのですか?」

「え、えっと……。あれ?」

『なくしもの』の形を話そうとするが、何故か形を思い出すことができない。

「貴女、自分でも形がわからないものを探そうとしているのですか?」

そう言われてやっと気が付いた。私、何を探していたんだろう……?

「で、でも! 大事なものなんです! どうしてか思い出せないけど……、でも、凄く大事な……」

大事な『何』なのか。言葉が出てこない。どうして? 何で?

「わかりました。では、催眠療法を行ってみませんか? なくしてしまったショックで、思い出せなくなっているのかもしれません」

「え、っと……」

「大丈夫です、なくしものが何なのかが判明した後で、改めて私めに依頼をするかしないかをお決めいただいて構いません」

催眠療法。そんなものでわかるのだろうか。半信半疑ではあったが、私は頷いた。どうせ『なくしもの』が何かわかるまでは、無料なんだもの。

テーブルの上にレコーダーという機械が置かれた。今の時代、機械道具は珍しい。

「では開始します。レコーダーで貴女の声を録音し、証明とさせていただきます」

クーンさんのゆっくりとした声が耳に入る。彼の声を聞いているうちに、私は眠くなった。

「はい、終了です」

パン。という手を叩く音がして、私は目を覚ました。

ん? この場合は我に返ったって言うのが正しいのかな? こういうことは初めてなので、よくわからない。

「貴女の『なくしもの』が何なのか、わかりました」

「本当ですか!?」

「ええ。紅茶のおかわりを飲みながら、レコーダーに録音された声をお聞きください」

カップに新しい紅茶が注がれる。紅茶を口につけるのとほぼ同時に、レコーダーが再生された。

『貴女がなくした、大事なものとは何ですか?』

『私には、結婚を約束した恋人がいたの』

レコーダーから耳慣れない私の声がした。

『でも、結婚直前に浮気されちゃった』

録音されている私の声は、次々と私の知らない私の記憶を語る。

『だから忘れるの。彼との思い出は全部、忘れることにしたの』

そこで、さっき聞こえたクーンさんの手を叩く音と、催眠終了の言葉が流れた。

「さてお客様、いかがなさいますか?」

「え、どうしたらいいの……」

レコーダーの私が言った言葉は俄には信じられない。でも私の頭は、なくしものはその『思い出』であるということを完全に納得している。

「ではこうしませんか。後日、またここにお越しください。引き続き催眠療法で過去の思い出を探ってみましょう。それで納得できたら、その時にお代をいただくということで」

「私が嘘を吐いて、タダで思い出そうとするとは思わないの?」

「一度に思い出せるものは多くありません。催眠療法は脳への負担が大きいのです」

そういうことなら、このまま漠然と『なくしもの』を探し続けるよりはいいだろう。

私はクーンさんの言葉に従うことにした。

一週間後、私は再びクーンさんのお店を訪れた。

前回と同じように、応接室で催眠療法を行ってもらう。

『最初のデートは、私のお気に入りの喫茶店で待ち合わせをしたの』

『障壁の外には出て行けないから、公園でのんびりしたり、流行のお店でご飯を食べたり。楽しかったなあ』

レコーダーの声と共に、彼との思い出が蘇る。『なくしもの』を見つけたという感覚は確かだった。

「さて、お客様。いかがなさいますか?」

思い出に浸る私に、クーンさんが笑顔で問い掛けてくる。

「お願いします。私は思い出を全部取り戻したいです、お代はいくら掛かっても構いませんから!」

私は迷うことなくクーンさんに言い切った。

それから私は月に一回クーンさんのお店に通い、少しずつだけれども、彼との思い出を思い出していった。

(彼はもういないけれど、ずっと忘れたままでいるのも寂しい。暖かい思い出があれば、それを活力に新しい恋もできるはず)

そう思ってのことだった。

『彼はすっごくシャイでね。手を繋いだのも五回くらいデートしてからやっとだったの。とっても嬉しかったなぁ』

『初めてキスをしたのは彼の部屋だったわ。親御さんが一階にいるでしょ。もうドキドキしっぱなし!』

むず痒いような、恥ずかしいような。私と彼との思い出がどんどんと思い出されていく。

と同時に、思い出の中の彼との別れも、近付いていた。

「今日の録音を聞くのは危険です」

ある日、クーンさんが沈痛な面持ちでそう告げてきた。

その言葉でなんとなくわかってしまった。今日のレコーダーの記録は、彼との別れの思い出なのだろう。

「大丈夫です。もう彼と別れて一年以上が経っていますから。ちゃんと整理も終わっています」

そう。私はここで、彼との出来事を思い出しながら、それを『過去の美しい思い出』として昇華しつつあった。

「思い出が貴女にとってショッキングだった場合、再び思い出を失ってしまう可能性が考えられます」

「大丈夫です。確かにショックな出来事だったかもしれないけれど、それはもう過去のことです」

「……わかりました。それでは再生しますよ。本当によろしいのですね?」

私は静かに頷いた。

それを見届けたクーンさんは、レコーダーの再生ボタンを押した。

『展望台でのデートの後からだったかしら。少しずつ彼がそっけなくなったの。ぜんぜん会ってくれなくなって、親御さんに聞いたけど、それでもわからなくって』

『最初は仕事が忙しいんだろうなって思ってた。それで心配になって、彼が働いている商店まで行ったのね』

『そしたら、彼が知らない女の人と仲良く商店から出てくるのを見てしまったの』

そう。彼は働き先で、そのお店のオーナーの娘さんと、いつの間にか良い仲になっていた。

そのことを私は知ってしまった。当然、家族と彼の親御さんに相談した。

お店のオーナーさん一家を交えた話し合いの席も何度か持たれた。お嬢さんには、彼には私という交際相手がいることを知ってもらった。

それでも、お嬢さんの態度は一途なまま変わらなかった。そして、彼もお嬢さんを選んでしまった。

彼の親御さんも、オーナー一家がお金持ちだと知ってからは、少しずつ態度が変わっていった。息子を一般家庭の小娘と結婚させるより、資産家のお嬢さんと結婚してもらった方が、いい暮らしができると思ったのでしょうね。

私はその時のことを思い出して涙を流していた。あの時は一滴だって出なかったのに。

『悲しかった。悔しかった。でも、資産家のお嬢さん相手じゃ仕方がないって皆が言うの』

『彼の親御さんは何度も誠心誠意謝ってくれた。お店のオーナーさんからは多額の謝罪金っていうのを積まれたわ。でも、私の心はこれっぽっちも晴れなかった。誰一人として、彼と浮気相手のお嬢さんを怒ってくれなかったのよ』

『両親も多額の謝罪金に目が眩んで、もう今回の件は忘れようって言ってきた。私が持ってる怒りとか悲しみとかに、真剣に向き合ってくれなかった』

私だけが、自分のことしか考えない我侭娘のように思われた。浮気をされたのは私なのに、私と一緒になって怒ってくれる人は誰もいなかった。

「私に味方してくれる人はいなかった」

ぽつりと言葉が漏れた。自分でも怖いほど低く、冷たい声だった。

『だからね。お嬢さんの振りをして、彼をあの展望台に呼び出したの』

悲しみに暮れていた私の声が、同じように低く、冷たいトーンに変わった。

クーンさんがレコーダーを止めようとしたけれど、私は泣きながらそれを制した。

『あの展望台は切り立った崖の上にあるけど、景色が素晴らしい場所なの。それに、彼が私にプロポーズしてくれた場所だったんだ』

思い出してはいけない。頭の中で警鐘が鳴る。だけど私は知りたかった。

あの展望台で私が何をしたのかを。

『あそこはね、一箇所だけ腐っていて危険な柵があるの。いつもは近付けないようになってるけど、細工をして近付けるようにしておいたの』

『いつもは立ち入れない場所が気になったのかしらね。彼は何も警戒することなく、その柵に近付いていったわ』

『彼が柵の前に立った時、私は通行人の振りをして彼に体当たりしたの』

『そうすると、彼が腐った柵に寄り掛かるでしょう? その衝撃で柵が崩れ落ちたのね』

『突然だったから、きっと何もできなかったのでしょう。彼は柵と一緒に崖の下に落ちていったわ』

「そう。そうよ。私は彼を殺したの」

気が付いたら、私は泣きながらもはっきりと「彼を殺した」と口にしていた。

『私が不幸になったんだから、彼も不幸になればいいって』

私の声に応えるように、レコーダーは言葉を紡ぐ。

「だって不公平でしょ? 私は浮気されたのよ? それなのに私が不幸になって、彼が幸せになるなんて」

『私がいると知って、それでも奪い取ったあの女も、彼を失って苦しめばいいんだ! ねえ、そうでしょう? そうに決まってるわ!』

私の声とレコーダーの声が重なった。

「ギャハハハハハハハハハハ!!」

『ギャハハハハハハハハハハ!!』

――失ったものを得た女は、それを得たがために狂気に囚われてしまった。

――彼女は『美しい恋の思い出』と引き換えに、それ以外の全てを失った。

――だが、星空のような煌く笑顔で思い出を語るその姿は、何ものにも代え難い程美しい。

――彼女は全てと引き換えに『恋する美』を体言する存在となったのだ。その姿こそ、私の求める糧である。

薄暗い室内に、女性の朗らかな声が響いている。

「彼がね、凄く素敵な展望台に連れていってくれたの」

「そしたらね。満点の星空の下で、『僕が君をずっと幸せにするから、結婚してください』って言ってくれたの! 素敵でしょ?」

「だから私も、彼を幸せにしてあげたいって、心の底からそう思ったんだ」

女性は虚ろな目で、自らの手で殺してしまった男との美しい思い出を、虚空へと語り続けていた。

「―了―」