3399 【光】
吹きすさぶ風の音が響く道を、シルフは一匹で歩いていた。
空がやけに赤かった。茜色の夕日がシルフの体毛を照らす。
◆
シルフの視線の先に、見慣れた少女の残骸があった。
その肉は腐り、融けかけていた。一見しただけでは、それが誰であるかわかる筈もない。だが、シルフはその死を纏う肉を、自らと心を交わした少女パルモであると一目で理解した。
少女の形をした肉塊は、全身が黒い煙のようなものに包まれていた。
「たす……け、て……」
パルモは光の無い濁った目で、懇願するように呟いた。
腐りきった声帯で声を紡ぐなどできない筈だが、シルフには確かにその言葉が聞こえた。
シルフはパルモに飛び掛る。
喉笛に喰らいつき、力を込めた。
グチャリ、ゴキリと、気管が潰れる音がした。
更に力を込める。
紐が千切れるような音が聞こえ、その朽ちた肉にへばり付いていた黒い影が霧散した。
「あり、が……と」
喉を潰した筈なのに、パルモの声が聞こえた。
それはパルモの朽ちた肉に残っていた残留思念だったのかもしれない。
ようやっと、シルフは呪われた死からパルモを解き放つことができた。
◆
シルフは完全に動かなくなったパルモを背負い、再び歩き始めた。
せめて彼女の体はコルガーの地へ帰してやらねば。そう思ったのだ。
物言わぬパルモを背負い、シルフは荒野を歩く。
歩いては休み、休んでは歩く。
その行動は、自身が小さくか弱かった頃のことを、嫌でも思い出させた。
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あの時も、シルフは荒れ果てた道を一匹で進んでいた。
サーカスの皆は人間に害を成したということで、全員が壊された。シルフは一番信頼していた少女の助けによって難を逃れていた。
そして、サーカスが壊される直前に子供を連れて旅立っていった男を探すために、当てもない旅に出た。
だが、行けども行けども、子供と男の姿はどこにも無かった。
それどころか、自動人形と呼ばれた者はことごとく動かなくなっていたか、破壊されていた。
ある町の塵捨て場に積み上げられた自動人形の無残な姿を見て、シルフは子供と男を捜すことを諦めた。
自動人形達はどういう訳かみんな動かない。人間が再び動かそうとしても動かない。であるならば、きっと子供も男も、何処とも知れない場所で動かなくなって破棄されたに違いない。
そんな諦念に達したのだった。
◆
そうして、シルフは彷徨った末に元いた世界によく似た雰囲気を持つ森に辿り着き、そこを住処としてひっそりと暮らすことにした。
シルフはその森で長い時間を掛けて成長していった。この世界の生き物が持ち得ない、不思議な力も身に付けた。
シルフの咆哮は空気を揺るがし、《渦》の進路をも変えることができた。思念を飛ばすことで、どのような動物とも意思疎通を図ることができた。
そうする内に、《渦》に追われた動物達がシルフの庇護を求めて森へと集った。
いつしか森は、周囲の環境とは比べ物にならないほど豊かになった。
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このまま森の奥で静かに暮らし、朽ちていくつもりであったシルフの元に、一人の女性が現れた。
その者は装飾された衣装を身に纏い、たくさんの果実や獣肉に囲まれていた。
「森の主様……。どうか渦の脅威から村をお救いください。そのためなら私はどうなってもかまいません。どうか村を……」
女性は祈りを捧げていた。
長い年月を生きるシルフは、短命の者から見れば超越した存在なのだろう。
何がどのように人里へ伝わったのかはわからなかったが、シルフは畏れ敬うべき森の主として認識されていた。
あの女性は《渦》から住処を守るため、シルフに捧げられるべくやって来た贄なのだと、森の動物から教えられた。
シルフは困惑した。ある程度は《渦》の災いを退けられるのは確かだったが、その力を請われて振るってよいものなのかと。
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シルフは女性を追い返すつもりで話し掛けた。森の動物達と言葉を交わすように、心に直接話し掛けた。
『立ち去るがよい。ここはお前のような者が来るところではない』
女性は吃驚した顔でシルフを見た。だが、すぐに表情を引き締める。
「森の主様、それは聞き入れられません。私は貴方様が《渦》の危機を退けることができると聞き、自らの意思でここまでやって来たのです」
『災いが迫っているというのか?』
「はい。人間風情がおこがましいとお思いでしょう。ですが、我々をお救いいただけるのは貴方様だけなのです。私の身はどうなっても構いません。ですから……」
女性は決意に満ちた顔でシルフの目をしっかりと射抜いた。その強い意志が、かつて自分を育ててくれた少女と重なって見えた。
だからだろうか、シルフはこの女性を助けてやりたいと思った
今度は自分が、自分の意志で何かを守る番なのだと、強く感じていた。
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女性と共に村へ向かったシルフは、《渦》の脅威から村を守った。
以降、シルフはコルガーの地を守る聖獣として、崇められるようになった。
シルフと意思を交わした女性の家系は、聖獣の意思を汲み取る役目を担うことになった。自然との共生を信条とするコルガーの民らしく、役目に驕ることなく、只あるがままシルフに寄り添った。
◆
そして、何百年という時間が静かに過ぎていった。
◆
ついにシルフは老いた。不思議な力も、段々と行使することができなくなっていた。共に生きてきた女性の家系の者とも、意思疎通を交わすことが難しくなってしまった。
ついに寿命が尽きるのだと、シルフは悟った。
死が迫る中、久方ぶりに己と意思を交わせる者が女性の家系に生まれてきた。パルモである。
彼女ならば自身の死を見届ける人物になり得るだろう。そう思い、コルガーの自然とパルモと共に、残された時間を静かに過ごすつもりだった。
だが何の因果か。パルモの遺骸を背負って放浪している有様である。
◆
シルフは後悔していた。
この様なことになるのなら、年端も行かぬパルモを自身の死の見届け人として選ぶべきではなかった。人との共生などせずに、森の奥へ隠匿したまま、ひっそりと生を終えるべきであった。
そんな徒労感から足が止まりかけた、その時だった。
「……シルフ」
パルモのものとは違う、とても懐かしい声がした。
懐かしいその声に惹かれるように、シルフは歩いていく。
――この世界に来たばかりの自分を、何くれと無く世話してくれた少女の声だった。
――力を持たない子犬の頃、たくさんの愛情を注いでくれた少女の声だった。
――『シルフ』という名前をつけてくれたのも、その少女だった。
忘れていた思い出が蘇る。
少女が名前を失っても、新しい名前を手に入れても。それでも、共にありたいと思っていた。
◆
どれくらい歩いただろう。シルフは荘厳な造りの巨大建造物の前にいた。
シルフは足を速め、少女の所へ急いだ。
少女はどこかでずっとシルフのことを待っていた。そうに違いないと、シルフはあの呼び声を聞いて確信していた。
諦めていた思いが蘇る。それはパルモをコルガーに帰すことすら忘れる程の、強烈な思いであった。
◆
声に導かれるまま歩いた先は、懐かしい光彩に満ちていた。
様々な光が明滅を繰り返しながら、ゆっくりと回転している。
『そう、この光だ……』
これこそが自分を別の世界へ誘った光である。数百年前、この光を辿ってこの世界へとやって来たのだ。
「シルフ……」
少女の呼び声が聞こえる。とても懐かしい呼び声だ。
『この先にいるのだな……』
シルフは懐かしい気持ちと共に、光の中をパルモを背に乗せたまま進む。
「やっと会えたね、シルフ。あれ? その子は?」
懐かしい声が近くで聞こえてきた。すぐ傍に少女がいる。
『この子はワシの友だ』
「そっか。一緒にこっちに来たんだね」
『ああ』
「歓迎するよ。その子とも友達になれるかな?」
『ああ、この子は良き子だ。きっとノームとも仲良くなれる』
「本当? それは楽しみだね!」
少女の嬉しそうな声。
そして、ふわりと頭を撫でられた。だが、かつてのしなやかな感触は無い。
シルフは顔を上げて少女を見やる。おかしいと気付いた時には遅かった。
少女の顔は確かにシルフの見知った顔である。だが、その顔は炎に包まれており、張り付いたような微笑みを浮かべていた。
「―了―」